執筆の時期・背景
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日本がバブル景気に沸く頃、1986年10月3日に村上は妻の陽子とともに日本を発った。10月半ば、ギリシャのスペッツェス島に住み、C・D・B・ブライアンの『偉大なるデスリフ』の翻訳に取り組んだ。11月にミコノス島に移動し、翻訳を最後まで仕上げてから本作品の執筆に取りかかった。大学ノートにボールペンで書き進めた。清書前のこのノートは今でも著者の手元に残っているという。12月28日、ミコノス島を出た。 1987年1月から1か月間、シチリア島のパレルモで書き続け、それからローマに移動。3月7日、早朝から17時間休みなしで第一稿を深夜に書き上げた。直後の日記に「すごく良い」とだけ書き記した。3月26日、第二稿完成。4月初め、イタリアのボローニャ国際児童図書展に来た講談社の社員に原稿を手渡した。「ノルウェイの森」というタイトルがついたのはボローニャに行く2日前のことだった。
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執筆の時期・背景
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本書は小山書店の依頼を受け、「新風土記叢書」 の第7編として書かれたものである。 1944年5月12日から6月5日にかけて取材のため津軽地方を旅行する。本書が完成したのは1944年7月末である。 「十五年間」(『文化展望』1946年4月号)という文章で太宰は次のように書いている。「私は或る出版社から旅費をもらひ、津輕旅行を企てた。その頃日本では、南方へ南方へと、皆の関心がもつぱらその方面にばかり集中せられていたのであるが、私はその正反對の本州の北端に向つて旅立つた。自分の身も、いつどのやうな事になるかわからぬ。いまのうちに自分の生れて育つた津輕を、よく見て置かうと思ひ立つたのである」
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執筆の時期・背景
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1941年(昭和16年)12月9日、太宰は弟子の堤重久から弟の堤康久の日記の話を聞くと、即座にこれを小説の題材にすることを思い立つ。15、6歳の頃から書き続けられた弟康久の日記は、兄重久によれば次のようなものであった。 「簿記帳みたいな黒いクロス表紙の、縦がきのノートに、蟻を並べたような小さな文字で、平均一日おき位の割合で、きっちり丹念にかきこんであった。(中略) 随所に、わざと大混乱の文体で、盛んに!や、?を使って、学校や教師に対する罵言、友人に対する侮弄、自己嫌悪の慨嘆、切々たる未来への憧憬が、激しい口調で、それでいてユーモラスに綴られていた。十六歳前後の、少年にしか書けない、どろどろした、切ない何物かがあった。まだ岩にならい岩漿が、赤く、熱く、火花を散らして、行間に流れていた」 また重久は本作品と日記を比べ、こう述べている。 「全篇に滲んでいるキリスト臭は、弟の日記には一抹もなく、当時私たちをとらえていたマルクスを、そっくりキリストに切り変えたものである」 本作品は、1942年(昭和17年)1月に書き始められ、同年3月19日に完成したものと推測される(原稿用紙292枚)。あとがきで太宰は「T君の日記は、昭和十年頃のものらしく、従つてこの『正義と微笑』の背景も、その頃の日本だといふ事も、お断りして置きたい」と記している。
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執筆の時期・背景
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「お伽草紙 (太宰治)」の記事における「執筆の時期・背景」の解説
「前書き」や「瘤取り」の冒頭部分において、著者が防空壕で原稿を書いていることが描かれているが、実際に本書は各地で罹災しながら書き続けられ、同時に出版の作業も進められた。 1945年(昭和20年)3月5日頃、太宰は「竹青」 を脱稿。3月6、7日頃から三鷹で「前書き」と「瘤取り」の執筆にかかる。同年3月10日、東京の市街地は大空襲を受ける(東京大空襲)。下谷区で罹災した小山清は三鷹の太宰の自宅に移る。「真赤に燃える東の空を望み見」 た太宰は妻子を甲府市の石原家(妻・美知子の実家)に疎開させることを決意し3月末に実行に移す。 4月2日未明、三鷹も空襲を受け、太宰も甲府に移住。「瘤取り」は5月7日頃までに脱稿。翌日、「浦島さん」の執筆開始。5月末か6月初め頃、「カチカチ山」の執筆開始。6月中旬から6月末にかけて「舌切雀」が書かれる。脱稿直後の7月7日未明、甲府市は焼夷弾攻撃を受け、石原家も全焼の憂き目に遭う。太宰は逃げ出す際、長女を背負いながら原稿を持ち出したという。戦火を免れた本書の原稿は、見舞いに駆けつけた小山清に託される。7月13日、原稿は小山によって無事筑摩書房に届けられる。焼け出された太宰一家は7月28日早朝、甲府を出発し、東京の上野経由で津軽に向かう。そして敗戦から2か月後の10月25日、『お伽草紙』は出版された。この初版本は長野県上伊那郡伊那町で印刷された。 初版刊行後、原稿の所在は長らく不明だったが、日本近代文学館が全編がそろった完全原稿を発見し、2019年4月6日から6月22日まで特別展「生誕110年 太宰治 創作の舞台裏」で一般公開された。原稿は400字詰め原稿用紙を半分に切った200字詰めで計387枚。前書きには「猿蟹合戦」の文字を消し「舌切雀」に書き換えた跡があり、また、「瘤取り」の原稿では「アメリカ鬼、イギリス鬼」だった表現が初版では「××××鬼、××××鬼」と伏せ字にされ、1946年(昭和21年)の再版では「殺人鬼、吸血鬼」と改められている。一方「前書き」と「瘤取り」は別の清書原稿を青森県近代文学館が所蔵しており、これは2019年公開の原稿をさらに浄書したとみられている。「瘤取り」は1945年3月に雑誌『現代』(講談社)に寄稿する予定があったとする関係者の証言がある。
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