石原家
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(愛媛県松山市・八幡浜市・大洲市、兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市、東京都) 父・潔(山下汽船社員) 1899年(明治32年)12月生 - 1951年(昭和26年)10月没 母・光子 1909年(明治42年)9月生 - 1992年(平成4年)6月没 兄・慎太郎(作家、政治家) 1932年(昭和7年)9月生 - 2022年 (令和4年) 2月没 妻・まき子(元女優) 1933年(昭和8年)7月生 - 子・なし 甥・伸晃、良純、宏高、延啓 裕次郎は良家の子弟というイメージがあるが、父・潔は山下汽船のサラリーマンであり、旧制中学も出ていない身から叩き上げて関連会社役員にまで出世した人物である。戦後の新興中流階級に属する。
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石原家
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石原綾〈26〉 演 - 矢部美穂 慎吾と伸の母。19歳の時に結婚した美人妻。ツヤ子・真理にパシられ、慎吾のことでイヤミを言われている。 ズタズタに引き裂かれた慎吾の制服を今も保管している。また、内心では「若いわたしが結婚してやったんだから感謝しろ」と毒づいている。 第6話で滋郎の遺体と対面し、「要りません、これ」と言い放つ。さらに、今までの気持ちが切れたのか、子供たちを置いて家を出て行く。 滋郎とあゆみの関係には8年前から気付いていたが、見て見ぬふりをしていた。 第10話にて携帯に「くいずですメール」が送られてくる。 石原滋郎〈45〉 演 - 徳井優 慎吾と伸の父。 2人の担任である中森あゆみと18年間もの長い不倫関係にあった(かつては「由利恭平」という名でカメラ好きの売れないモデルをしていて、当時8歳のあゆみとはゲームセンターで出会い、彼女の母親の不倫現場を盗撮して自殺に追い込んだ)。 高野生誘拐事件に便乗し、身代金6千万円を奪ってあゆみと逃亡するつもりでいたが、芦ノ湖で6千万円を回収した後に真犯人から連絡を受けて「使えない6千万を使えない3千万円と交換する」との条件を飲み、立栄学院大学付属小学校へと向かう。そして、スタンガンと催涙スプレーを使って3千万円も奪おうとする。 しかし、潜伏していた小学校の体育館で、犯人によって「生きたまま100本の矢(その内、命中したのは69本)で射殺される」というあまりにも凄惨な最期を遂げた。 ちなみに真犯人が送り付ける件名「くいずですメール」に対し、便乗犯の彼が送り付ける件名は「クイズです」になっている(真犯人のメールを耳で聞いていたため、犯人のメールをカタカナだと誤解していたため)。なお、件名以外はすべてひらがなという点は共通している。 石原慎吾 演 - 松崎駿司 綾と滋郎の子。お受験に失敗した。綾を裏切っていた滋郎が許せずに誘拐事件に加担していた。 石原伸(のぶ) 演 - 根本天翔 綾と滋郎の子。綾が滋郎の不倫を見過ごしていることを分かっており、綾には自分達を見てほしいと願っていた。
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石原家
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まこと 主人公、というか作者本人。呆れ果てる程の怠け者かつ根性無しで、人として当たり前の努力や我慢からすら逃げ出そうとする。高校卒業後、とある工場に就職するものの、元々働く気など無かったために僅か3日で退職して無職となり、父ゲンゴに脅えながら「働かずして生きていく方法」を模索するが……。 ゲンゴ まことの父。非常に厳格かつ生真面目で、曲がった事が大嫌いと、息子のまこととは正反対の性格。当然まこととはソリが合わず、まことが中学2年生の頃から「ギクシャクするほどのアソビもない解散寸前のお笑いコンビ状態」らしい。会社を僅か三日で辞めてしまい、それ以降は全く働こうとせず、その事を指摘すれば屁理屈をこねて言い逃れをしようとするまことに呆れかえっているが、まことが就職をした際には就職祝いに30万円もする時計をプレゼントするなどそれなりに喜んでいた。 キクヨ まことの母。全く働かない息子に頭を抱えているが、父ゲンゴに比べると、まことに甘いところもある。 ミスズ まことの妹。高校1年生。「お腹が痒いから」というのを理由に学校を休む(サボる)など、どちらかというとまことよりな性格。 アキラ まことの弟。名前が出てきたのみで、今のところ本編に登場していない。
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(愛媛県松山市・八幡浜市・大洲市、兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市、東京都) 祖父・潔(山下汽船社員) 1899年(明治32年)12月生 〜 1951年(昭和26年)10月没 愛媛県喜多郡長浜町(現大洲市)生まれ。父(石原4兄弟の曾祖父)・信直は警察官だった。宇和島中学(現在の宇和島東高校)中退。14歳で山下汽船に店童として入社した。店童あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。 祖母・光子 (広島県、加藤三之助の娘) 1909年(明治42年)9月生 〜 1992年(平成4年)6月没。 叔父・裕次郎(俳優、演歌歌手) 1934年(昭和9年)12月生 〜 1987年(昭和62年)7月没。 父・慎太郎(作家、政治家・衆議院議員、元東京都知事) 1932年(昭和7年)9月生〜 2022年(令和4年)2月没。葬儀では伸晃が喪主を務めた。 母・典子(神奈川県、石田光治の娘) 1938年(昭和13年)1月生〜 2022年(令和4年)3月没。 弟・良純(俳優・気象予報士)、宏高(政治家・衆議院議員)、延啓(画家)。 妻・里紗 伸晃は1988年(昭和63年)、女優・女性タレントであった田中理佐と結婚、衆議院議員選挙に初当選した1990年(平成2年)には女児が誕生した。第2子として1993年(平成5年)に誕生した長男には先天性動静脈瘻があり、2度の外科手術を受けたものの生後5ヶ月で死亡した。1999年(平成11年)、次男となる男児が誕生した。 結婚時、伸晃の母親・典子から画数の不良を指摘された田中は、自身の名前を出生名であった「理佐」から「里紗」へ改めている。
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石原家
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(愛媛県松山市・八幡浜市・大洲市、兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市、東京都) 家系 慎太郎によれば、「私も幼い頃家族しての神奈川県から愛媛、広島への大旅行で父や母の実家を初めて訪れた時に会った、まだ元気でいた父の母親と母の父親の記憶をこの旅で見た他の何よりも強い印象で覚えていますが、何故かそれはその後私が成長していってからの方がますます鮮やかで確かな記憶として心に刻まれてきたような気がする。そして父や母が亡くなった後、父や母への追憶に重ねてそれがますます懐かしく鮮やかに思い出されるようになりました。」という。 石原家は潔(慎太郎の父)の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった(理由は不明)。それを再興するため服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入った。石原家再興の当主となった1862年(文久2年)生まれの信直と、1867年(慶応3年)生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた。長男の石原克己、長女の壽万(すま)、二男の石原静夫、三男の潔、二女の美壽(みす)、四男の石原真砂(まさご)の6人である。信直の職業は警察官だった。潔は愛媛県長浜町(現:大洲市)に生まれ、幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区で過ごした。 石原本家の菩提寺は八幡浜市保内町の龍潭(りょうたん)寺である。 佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな大家でもないけれど、元は、落魄(らくはく)した士族です。先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。弓の名人だったらしく、戦(いくさ)で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが(笑)、それで七つ矢車の家紋を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った」と述べている。 AERA誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の吉田司に慎太郎は「うちは士族の出でね。カッコいいんだ。武田の武士でね、弓矢の名人でね、家紋が7つ矢の矢車なんですよ。武田軍団って、戦強かったでしょ。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ。つまり死ぬだろうと……。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で酒飲み続けて、仕事で死んでいった。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね(笑)」と述べている。 祖父・石原信直(警察官) 1862年(文久2年)生 - 1922年(大正11年)没 服部信義の二男として生まれ石原家に入った。 祖母・ササヨ 1867年(慶応3年)生 - 没 父・潔(山下汽船社員、幹部) 1899年(明治32年)12月生 - 1951年(昭和26年)10月没 生い立ち 愛媛県八幡浜に隣接する長浜という港町に生まれた。警察官石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の派出所を随分転々とさせられた。1922年(大正11年)、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという。 山下汽船へ 1913年(大正2年)3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学(現:県立宇和島東高校)に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を中退している。中退の理由は分からない。1914年(大正3年)、山下汽船に入社。当時潔はまだ14歳の少年だった。潔の山下汽船入社時の身分は店童(てんどう)だった。 慎太郎によれば、「(潔は)本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです。家は落魄(らくはく)する一方だったようですからね」という。 店童(てんどう)として入社してから5年目台湾赴任時代の1919年(大正8年)12月正式の社員となった。 1942年(昭和17年)9月山下汽船小樽出張所は小樽支店に格上げされた。この組織改革に伴って潔はそれまでの小樽出張所長から小樽支店長心得に出世し、翌18年1月1日を以って、正式に小樽支店長となった。慎太郎が10歳のときだった。しかし潔が小樽支店長の肩書を使ったのは2ヵ月にも満たなかった。同年2月15日には本社の部長、東京支店副支店長の辞令が出て、足かけ8年過ごした小樽を後にした。同じ年の10月には子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組改称)取締役に転出となり、山下汽船の方は嘱託(部長待遇)扱いとなった。 店童(てんどう)上がりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。 人柄 妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという 先妻は元大同海運社長崎山好春の妻の姪に当たる。 佐野眞一によれば、「山下汽船OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々と上がった。その評価の中に仕事に関するものはほとんどなく、酒や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである」という。 慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし…(笑)」という。 晩年 晩年には今まで家になかった仏壇をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌してお経を上げるようになったという。 慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、高血圧のせいもあって、舌がもつれてお経を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という。 母・光子(加藤三之助の娘) 1909年(明治42年)9月生 - 1992年(平成4年)6月没。 生い立ち 2002年(平成14年)2月24日にテレビ朝日系で放送された『グレートマザー物語』では、光子は広島県の生まれと紹介している。 厳島での生活 加藤家は厳島神社の参道で土産物屋を開いた。光子がいくつのとき厳島に移ってきたかははっきりしない。光子は大正末期か昭和の初め頃に厳島を出ていった。地元の古老によれば「光子が厳島を出ていったのは、継母との折り合いが悪かったからだろう」という。 神戸での生活、結婚 厳島を出た光子が誰を頼って神戸に出たかについてははっきりしていない。慎太郎によれば「神戸ではおばさんの家に寄宿していたんでしょう。その家は三宮にあって、貿易商だったみたいですよ。そこに預けられたけれど、従姉妹にあたる娘となかなかそりがあわなくて、ずいぶん意地悪されたって言ってましたけど。それで(第二高女を卒業後)東京に行ったんだという言い方をしてましたけどね。名前はたしかタケウチさんといったかな」という。 光子の神戸での寄宿先は竹内五一商店という貿易商だった。慎太郎は、潔と光子の見合いは芦屋に住む河野という女性が仲介したという話は聞いているが、それ以外は知らない、と言った。 1927年(昭和2年)3月に神戸市立第二高等女学校(現:神戸市立須磨高校)を卒業した。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した。 弟・裕次郎(俳優、歌手) 1934年(昭和9年)12月生 - 1987年(昭和62年)7月没。同妻・まき子(元女優) 子どもはない 妻・典子(石田光治の娘) 1938年(昭和13年)1月生 - 2022年(令和4年)3月8日没。 典子の父親石田光治は落下傘の紐などを製造する東洋麻糸という紡績会社に勤めていた。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある広島市己斐町(現:西区己斐)で生まれた。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年(昭和13年)秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した。 典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという。 結婚について慎太郎は阿川佐和子との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった(笑)。それで、呼びつけられて“切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ(笑)」と述べている。 夫の死を追うような形で、慎太郎死去の約1か月後の2022年3月8日、84歳で死去した。 長男・伸晃(政治家) 1957年(昭和32年)4月生 -同妻・里紗(元女優・タレント) 二男・良純(俳優・タレント、気象予報士) 1962年(昭和37年)1月生 - 三男・宏高(銀行員、政治家) 1964年(昭和39年)6月生 - 四男・延啓(画家) 1966年(昭和41年)8月生 - 末弟(あるいは従兄弟) 1940年(昭和15年)3月生 - 最初、潔の戸籍に入っていたが、のち他家に養子縁組した。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂(まさご)であるという。なおこの男性の"父"という真砂(まさご)と"母"という女性の間に正式の婚姻関係はない。この男性が養子縁組した祖母の家と、山下亀三郎の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚に当たる。 異母兄(小河姓) 父・潔が先妻との間にもうけた子。 潔の姉壽万(すま)夫婦に子供がなかったため養子に行った。1952年(昭和27年)、神戸商大を卒業して山下汽船と同じ資本系列にある第一汽船に入社した。 伯母・壽万(すま、教員) 父・潔の姉、異母兄(小河姓)の養母。 慎太郎によれば「壽万(すま)さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という。 慎太郎の異母兄(小河姓)によれば「(壽万(すま)の夫は)一時獣医をやっていましたが、すぐにやめて明石市の市役所の公吏になりました。仕事は税務関係です。養母も明石小学校の教員をやっとったから、生活的には困ったことはありません」という。 伯父・石原克己、石原静夫 父・潔の兄。 1944年(昭和19年)から敗戦までは、本家である克己の石原家は八幡浜から今治に疎開していた。 叔父・石原真砂 (まさご) 1939年(昭和14年)没 父・潔の弟。 叔母・美壽(みす) 父・潔の妹。 小泉家との関係 妻典子の従兄弟の子に当たる美枝子が政治家の小泉純一郎(元首相)の実弟・小泉正也と結婚した。
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