台湾赴任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/13 03:22 UTC 版)
同治13年(1874年)5月、日本による台湾出兵が行なわれ原住民との戦闘が行なわれると、清朝は沈葆楨を欽差弁理台湾等処海防兼理各国事務大臣に任命し、福建の全ての鎮及び道をその管轄に置き、江蘇・広東の船舶を徴用し日本及び各国との外交交渉を担当することとなった。沈葆楨は受命後、福州将軍の文煜、閩浙総督兼署福建巡撫李鶴年と共に上奏し外交交渉の基本方針を確認している。 6月、沈葆楨は福建布政使潘蔚と共に台湾に着任、軍備の整備に着手し府城を本拠地と定め安平に砲台(二鯤鯓砲台)を建設、洋式大砲を設置し防禦を固めた。同時に枋寮・東港等に兵を駐留させ、淮軍の精鋭部隊である武毅銘軍(劉銘伝の項目を参照)を配備、唐定奎の部隊6千余人及び総兵張其光・呉光亮等の8千人規模の軍を配置し有事に備えている。 このように防備を固めた台湾であるが、清は海防能力に欠如し、同時に新疆での叛乱(ヤクブ・ベクの乱、1862年 - 1877年)が収束していなかったことより日本との全面対決を避ける傾向があった。日本側も熱帯病により作戦行動に支障を来たし、大規模な作戦継続能力に不足していたことから北京専約を締結し、日本は台湾より撤兵した。 同治14年(1875年)に北京へと戻り両江総督兼南洋大臣に任命され南洋水師を管掌するようになるが、清朝の海防予算には限界がある事を認識していた沈葆楨は、限り有る予算を南北洋水師に分散させる不利を説き、北洋水師に予算を重点配分することを主張した。光緒5年(1879年)、在任中に59歳で病没。粛公と諡された。
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