軍令部第一部長
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1941年(昭和16年)4月10日、軍令部第一部長。福留は、海大の成績優等卒業生であり、戦略戦術の神様と称えられていたが、理論・作戦に福留独自のものは残っておらず、独創者ではなくあくまで祖述者であった。戦艦による日本海海戦のような大勝利のために戦略戦術を立て、真珠湾攻撃などの空母機動部隊の活躍後もやはり決戦主力は戦艦の大艦巨砲で、機動部隊はその補助に過ぎないと考えており、その力関係はミッドウェー作戦でもなお変わることはなかった。 12月8日、太平洋戦争勃発。1942年(昭和17年)4月、第二段作戦立案の際に、ハワイ攻略を目指す連合艦隊が求めるMI作戦(ミッドウェー作戦)と同時にアリューシャン方面の米軍進攻阻止を目的としたAL作戦を軍令部が加えた件に関して、福留は「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した。」と回想している。11月1日、海軍中将へ進級。
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軍令部第一部長
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1943年(昭和18年)6月15日、軍令部第一部長。 1943年11月から12月にかけて行われたブーゲンビル島沖航空戦、ギルバート諸島沖航空戦で現地から大戦果が報告されたのに対し、軍令部五課は戦果はほぼ無いと判断した。中沢はこの経験から作戦部に現地戦果の三分の一と考えるようにと指導している。 航空本部教育部長の有馬正文と黒木剛一が必死戦法の反対意見を述べた際に、中澤は「必死は本人の崇高な自由意志によるべきで、決死を限度と確信した」という。 1944年(昭和19年)2月、海軍大臣嶋田繁太郎大将が軍令部総長に就任する。中澤の手記には嶋田の言動への不満も見られるが、「格別のご指導、恩顧を受けた」として、嶋田に関する資料や記録を収集し、嶋田の伝記を一部執筆している。 1944年(昭和19年)4月4日、軍令部第二部長の黒島亀人が「作戦上急速実現を要望する兵力」として中澤に対して「震洋」「回天」といった特攻兵器を含む提案をする。軍令部は検討の後、海軍省へ各種緊急実験を要望され、艦政本部は水中特攻兵器の特殊緊急実験を開始した。戦後、中澤は特攻兵器に関して「特殊奇襲兵器の使用に関しては19年3月頃から思想はあった。マリアナ失陥後の新情勢に対処するには戦理上在来兵器では尋常の勝負ができないので特殊兵器の採用となった。新兵器は軍令部二部長のイニシアティブで採用となったもので、作戦部が作戦上から要求したものではなかった。第二部長は戦備の見地から特殊兵器を研究していたが、同兵器の整備には熱心で専門的に研究していたように記憶する。これに反し第一部長は特殊兵器の採用には熱心ではなかった。理由は特殊兵器では大した戦果は戦果は上がらぬと考えたからであった。しかし、尋常の手段では手がなく、かつ資材不足の状況下に大量に生産ができ、しかも戦果を期待できるものということで戦備の見地から賛成したが、これで戦勢を挽回できるなどという大それた考えに基づくものではなかった。『残された唯一の手段はあれ以外にないではないか。そんな凄惨な戦いを行う前に戦をやめねばならぬ』というのが当時伊藤軍令部次長、第一部長に共通した考え方であった。そんなわけで作戦部は部長以下一般に特殊兵器の採用には冷淡であったが、第二部長が特攻部長と連絡して推進していた」と証言している。 1944年6月25日、元帥会議においてサイパン断念が上奏された。中澤は伊藤整一中将に対し、必勝を期しうる信念を失ったので部長の辞表を提出し、一線で最後の奉公がしたいと述べたが、伊藤から自分も同意見だが命があるまで頼むと言われ、部長職に留まった。 1944年10月20日、第一航空艦隊長官大西瀧治郎中将が神風特攻隊を開始する。中澤によれば、軍令部総長・及川古志郎、次長・伊藤整一と共に、第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎から任地で特攻を採用する決意を聞かされ、及川が「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します」と答えたという。戦後、作家の保坂正康が晩年の中澤に対する取材で、その当時はフィリピンに出張中でその席に中澤はいなかったのではないかと質問した時、老いのせいかもしれないが中澤は絶句して答えられなかったと書いているが、中沢の比島・台湾・南西諸島方面への出張は10月2日に出発し、9日に帰還しており、大西が東京を出発したのは9日のことであり、鹿屋についたのは10日のことである。また、妹尾作太男(海兵74期)によれば、中澤が1977年7月11日に水交会の講演で、「航空機の体当たりは大西中将が比島で採用したのが最初で、それまで中央でそうした動きは一切なかった」と発言した件について、後日に妹尾が10月1日に編成された桜花部隊(第七二一海軍航空隊)に関して質問し、中澤が「私は知らない。編成は土肥一夫中佐が担当していた」と言うと、土肥は「中澤部長に上申し決裁した」と答え、妹尾が「すでに公式に航空体当たり戦術は決まっていたのではないか」と質問したが、中澤は沈黙したままだったという。桜花部隊は編成時点では特攻は決まっておらず、普通の航空隊と同じ編成が行われ、軍令部から特攻の編成などが発令されるのも中澤転出後の1945年2月10日第五航空艦隊編制からであるが、神風特攻隊が開始される前から航空特攻に関して中央で研究が始まっており、桜花部隊も特攻戦力化を目指して準備が進められていた。 中沢の後任として軍令部第一部長に就任した富岡定俊少将は、中澤を「日本海軍の提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評している。 12月5日、第二航空艦隊司令部附。12月20日、第二十一航空戦隊司令官。1945年(昭和20年)2月5日、台湾海軍航空隊司令官。中澤が大切にしていたアルバムに、台湾航空隊の司令官として特攻の指揮にあたっていた時のものがあり、特攻隊員たちの写真の横に自ら書いた説明は「笑わんとして死地に向かわんとする特攻隊勇士」である。 5月10日、高雄警備府参謀長 兼 第一航空艦隊参謀長。6月15日、第一航空艦隊参謀長を免じられる。
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