軍令部第一部長とは? わかりやすく解説

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軍令部第一部長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:09 UTC 版)

福留繁」の記事における「軍令部第一部長」の解説

1941年昭和16年4月10日、軍令部第一部長。福留は、海大成績優等卒業生であり、戦略戦術神様称えられていたが、理論作戦福留独自のもの残っておらず、独創ではなくあくまで祖述であった戦艦による日本海海戦のような大勝利のために戦略戦術立て真珠湾攻撃などの空母機動部隊活躍後もやはり決戦主力戦艦大艦巨砲で、機動部隊はその補助に過ぎない考えており、その力関係ミッドウェー作戦でもなお変わることはなかった。 12月8日太平洋戦争勃発1942年昭和17年4月第二段作戦立案の際に、ハワイ攻略目指す連合艦隊求めMI作戦ミッドウェー作戦)と同時にアリューシャン方面米軍進攻阻止目的としたAL作戦軍令部加えたに関して福留は「ミッドウェー攻略しても、劣勢な米艦隊反撃出ないではないかとの懸念強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦行えば同地米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊出撃強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施要望した。」と回想している。11月1日海軍中将進級

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軍令部第一部長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:32 UTC 版)

中澤佑」の記事における「軍令部第一部長」の解説

1943年昭和18年6月15日、軍令部第一部長。 1943年11月から12月にかけて行われたブーゲンビル島沖航空戦ギルバート諸島沖航空戦現地から大戦果が報告されたのに対し軍令部五課は戦果はほぼ無いと判断した中沢はこの経験から作戦部現地戦果三分の一考えるようにと指導している。 航空本部教育部長の有馬正文黒木剛一必死戦法反対意見述べた際に、中澤は「必死本人崇高な自由意志によるべきで、決死限度確信した」という。 1944年昭和19年2月海軍大臣嶋田繁太郎大将軍令部総長就任する中澤の手記には嶋田言動への不満も見られるが、「格別ご指導恩顧受けた」として、嶋田に関する資料記録収集し嶋田伝記一部執筆している。 1944年昭和19年4月4日軍令部第二部長の黒島亀人が「作戦上急速実現要望する兵力」として中澤に対して震洋」「回天」といった特攻兵器を含む提案をする。軍令部検討の後、海軍省各種緊急実験要望され艦政本部水中特攻兵器の特殊緊急実験開始した戦後中澤特攻兵器に関して「特殊奇襲兵器使用に関して19年3月頃から思想はあった。マリアナ失陥後の新情勢対処するには戦理上在兵器では尋常勝負できないので特殊兵器採用となった新兵器軍令部二部長のイニシアティブ採用となったもので、作戦部作戦上から要求したものではなかった。第二部長は戦備見地から特殊兵器研究していたが、同兵器整備には熱心で専門的に研究してたように記憶する。これに反し第一部長は特殊兵器採用には熱心ではなかった。理由特殊兵器では大した戦果戦果上がらぬ考えたからであった。しかし、尋常の手段では手がなく、かつ資材不足の状況下に大量に生産ができ、しかも戦果期待できるものということで戦備見地から賛成したが、これで戦勢を挽回できるなどという大それた考えに基づくものではなかった。『残され唯一の手段はあれ以外にないではないか。そんな凄惨な戦いを行う前に戦をやめねばならぬ』というのが当時伊藤軍令部次長第一部長に共通した考え方であったそんなわけで作戦部部長下一般に特殊兵器採用には冷淡であったが、第二部長が特攻部長連絡して推進していた」と証言している。 1944年6月25日元帥会議においてサイパン断念上奏された。中澤伊藤整一中将対し必勝期しうる信念失ったので部長辞表提出し一線最後奉公がしたい述べたが、伊藤から自分同意見だが命があるまで頼むと言われ部長職に留まった。 1944年10月20日第一航空艦隊長官大西瀧治郎中将神風特攻隊開始する中澤によれば軍令部総長及川古志郎次長伊藤整一と共に第一航空艦隊司令長官内定した大西瀧治郎から任地特攻採用する決意聞かされ及川が「決し命令はしないように。戦死者処遇に関して考慮します」と答えたという。戦後作家保坂正康晩年中澤対す取材で、その当時フィリピン出張中でその席に中澤はいなかったのではないか質問した時、老いのせいかもしれない中澤絶句し答えられなかったと書いているが、中沢比島台湾南西諸島方面への出張10月2日出発し9日帰還しており、大西東京出発したのは9日のことであり、鹿屋についたのは10日のことである。また、妹尾作太男(海兵74期によれば中澤1977年7月11日水交会講演で、「航空機体当たり大西中将比島採用したのが最初で、それまで中央そうした動き一切なかった」と発言した件について、後日妹尾10月1日編成され桜花部隊第七二一海軍航空隊に関して質問し中澤が「私は知らない編成土肥一夫中佐担当していた」と言うと土肥は「中澤部長上申し決裁した」と答え妹尾が「すでに公式に航空体当たり戦術決まっていたのではないか」と質問したが、中澤沈黙したままだったという。桜花部隊編成時点では特攻決まっておらず、普通の航空隊と同じ編成が行われ、軍令部から特攻編成など発令されるのも中澤転出後の1945年2月10日第五航空艦隊編制からであるが、神風特攻隊開始される前から航空特攻に関して中央研究始まっており、桜花部隊特攻戦力化目指し準備進められていた。 中沢後任として軍令部第一部長に就任した富岡定俊少将は、中澤を「日本海軍提督でもっとも有能かつ潔癖な人物」と評している。 12月5日第二航空艦隊司令部附。12月20日第二十一航空戦隊司令官1945年昭和20年2月5日台湾海軍航空隊司令官中澤大切にしていたアルバムに、台湾航空隊司令官として特攻指揮にあたっていた時のものがあり、特攻隊員たちの写真の横に自ら書いた説明は「笑わんとして死地に向かわんとする特攻隊勇士」である。 5月10日高雄警備府参謀長第一航空艦隊参謀長6月15日第一航空艦隊参謀長免じられる。

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