海軍中央の見方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:27 UTC 版)
「藤村義朗 (海軍軍人)」の記事における「海軍中央の見方」の解説
日本海軍中央での藤村(あるいは西原)の和平工作に対するその時点での反応として一次資料で確認されているのは、前記した米内光政の意見(高木惣吉による)と海軍から藤村(西原)に送られた訓電の傍受記録のみである。 太平洋戦争後、海軍中央にいた人物からこの工作を知った際の反応が複数証言された。部下2人に和平の研究を密かに命じていたという軍務局長の保科善四郎は、6月に藤村の電報を持参した部下が「大変喜んで」おり、保科自身が米内光政に電報を見せると米内も「嬉しそうであった」が、軍令部次長の大西瀧治郎が「陸海軍離反策の謀略」として反対したという。軍令部第一部長の富岡定俊は、直属上司の大西が継戦派であることを意識して、その上位である軍令部総長の豊田副武から大西を説得させるべく豊田に相談すると、(富岡は)作戦に心血を注ぐべきで、和平の問題は考えるべきではないと返答され、以降富岡は和平に関する話題に関わらなかったという。豊田自身は戦後の著書『最後の帝国海軍』(世界の日本社、1950年)で「こんな大きな問題を中佐ぐらいに言うのはおかしい」と海軍省も軍令部も危険視し、謀略か「観測気球」という見方だったと述べている。大井篤は戦後の「海軍反省会」において、藤村を東郷(茂徳)や米内が期待していたと述べているが、その「期待」について、東郷はダレスを通じてソ連やアメリカの情報を得ることができるという部分であったという。 藤村の元上司である小島秀雄は「海軍反省会」で、「藤村が小島の命でスイスに行った、と知っていたらもう少し考え方があったと戦後豊田に言われた」と証言している。 藤村の旧所属であるベルリン海軍武官室は従来よりハックとつながりを持っていた。それに関連して、1944年以前よりハックからアメリカとの仲介の話が持ちかけられていたという証言が残されている。これが事実とすれば、ハックを介した和平工作は、ベルリン海軍武官室として組織的になされていたことになる。有馬哲夫はこれらの点を踏まえ、「藤村のスタンドプレーが、ソ連を仲介としない、米英を相手とする直接和平交渉の目を摘んだといえる」と述べている。 竹内修司は「藤村工作の評価は今日に至るも定まっているとはいえない」と記している。
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