海軍中佐 ~ 海軍大佐
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1925年1月15日からは呂号64潜水艦の艤装員長を務めるが、僅か3ヶ月後に呂号64潜水艦長を務める。同年11月16日には海軍水雷学校教官時代の経験を買われ、戦艦「山城」の水雷長・分隊長を兼任する。戦艦「山城」での勤務は醍醐にとって大きく飛躍するきっかけとなり、僅か4年後の1929年11月30日に海軍中佐へ昇進すると共に、海軍水雷学校・砲術学校・潜水学校の各教官を兼任、陸軍重砲兵学校の教官に就任(1930年1月8日付)するなど、海軍はもとより陸軍からも最重要・軍隊に欠かせない地位を確立した。 海軍に存在する3つの学校を教官として所属するとともに、海軍中佐、さらに陸軍の学校にまで教官として招聘された醍醐は、さらなる多忙の日々を送る。そこへ、今度は同年12月16日から海軍通信学校の教官として招聘され、潜水隊として任務も隊長・艦長から司令へ昇進していく。1932年12月1日には第9潜水隊司令、1933年11月15日には第19潜水隊司令に着任、1934年11月15日には海軍大佐へ昇進、軽巡洋艦「夕張」の艦長へ就任した。
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