トラック島空襲
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トラック島空襲(トラックとうくうしゅう)は、太平洋戦争中の1944年2月17日-18日にかけて[7]、アメリカ軍機動部隊が実施した日本軍の拠点トラック島への攻撃である[8][9]。 アメリカ軍の作戦名はヘイルストーン作戦(Operation Hailstone)で、エニウェトク環礁攻略を目的としたキャッチポール作戦(Operation Catchpole)の支作戦であった。 日本海軍はトラック泊地を絶対国防圏の拠点として重視していたが[10]、空襲で大打撃を受けることになった。一連の空襲の被害を海軍丁事件(かいぐんていじけん)と呼称する[5]。 2月17日から18日のトラック島空襲と[11]、同月23日のマリアナ諸島空襲により日本軍は多数の艦船と航空機を失い[12][13]、大本営をはじめ各方面に大きな衝撃を与えた[14][15]。トラック島は無力化されたが、アメリカ軍は攻略にかかる手間を避けて進攻を行ったため、敵中で孤立したまま終戦まで日本軍の拠点として残った。
注釈
- ^ 『戦史叢書6巻、中部太平洋方面陸軍作戦<1>』168頁の航空兵力表では、トラック泊地所在の航空機は戦闘機69、夜間戦闘機9、艦攻33、艦爆2、陸攻10、水上戦闘機9、水上偵察機21、水上観測機13、飛行艇2、計168機[2]。
- ^ 新鋭大型空母大鳳の竣工は同年3月、雲龍型航空母艦3隻(雲龍、天城、葛城)も未就役。
- ^ 日本海軍の軽空母と改造空母のうち機動部隊として作戦行動可能なのは、瑞鳳、龍鳳、千歳、千代田、隼鷹〈潜水艦の雷撃により損傷して修理中〉、飛鷹〈潜水艦の雷撃により損傷して修理中〉、航空戦艦日向、航空戦艦伊勢。
- ^ 聯合艦隊命令作第64号。
- ^ 1944年初頭時点の瑞鳳は、第一航空戦隊所属。新鋭空母大鳳の竣工にともない、瑞鳳は三航戦へ編入予定であった。
- ^ 敷島部隊は、第二戦隊(長門、扶桑)、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根)、第十戦隊(秋月、谷風、浦風、浜風、磯風)[65]。
- ^ 日本本土で練成中で、内地から直接リンガ泊地にむかう母艦航空部隊(翔鶴、瑞鶴、筑摩、第十戦隊)を「櫻部隊」と呼称した。
- ^ 第17駆逐隊(浦風、谷風、浜風、磯風)は敷島部隊をパラオに送り届けたあと、トラック泊地に戻っていた[82]。
- ^ 10日にトラックを出発した内地回航部隊は、軍艦4隻(武蔵、瑞鳳、千代田、大淀)、駆逐艦(若葉、初春、白露、満潮、玉波)。
- ^ 2月10日の機密命令作第68号「第一基地航空部隊指揮官(第一航空艦隊司令長官)ハ内南洋方面派遣兵力ヲシテ邀撃作戦ニ関シ内南洋方面部隊指揮官ノ区処ヲ受ケムベシ」[91]。
- ^ 海鷹は駆逐艦電と響に護衛され、1月31日にシンガポールを出発していた[102]。
- ^ 歩兵第150聯隊長林田敬蔵大佐と軍旗は藤波に乗艦、2月6日に館山泊地を出発した。
- ^ 輸送船5隻の内訳は、暁天丸、辰羽丸、隆興丸、瑞海丸、新京丸。
- ^ 吉田によれば未帰還機の発生と通信は補給部隊と会合した第58任務部隊の哨戒中の戦闘機によるもの。
- ^ 21日までは攻撃は無いと推定された。
- ^ 『世界海戦史概説第四巻』内の「太平洋方面の海戦」のこと。幹部学校の依頼により竹下が執筆した。
- ^ 阿賀野は前年11月中旬のラバウル空襲と潜水艦の雷撃で大破[130]、トラック泊地に帰投後、工作艦明石の支援を受けて修理を行っていた[131]。
- ^ 橋本以行は低気圧があって哨戒機が半分しか飛ばずに戻ってきた旨を語っている。
「第2部 敗勢に苦闘する潜水艦」『伊58潜帰投せり』 学研M文庫版、2001年、P192-193 - ^ 第四根拠地隊の長安丸(330トン、西日本汽船)もしくは長江丸(2,629トン、東亜海運)と推定[131]。
- ^ スプルーアンス(旗艦「ニュージャージー」)直率部隊の編成は、戦艦(ニュージャージー、アイオワ)、重巡洋艦(ミネアポリス、ニューオーリンズ)、駆逐艦(ブラッドフォード、イザード、チャーレッティ、バーンズ)[162]。
- ^ 2月17日11時01分、聯合艦隊電令作第947号「第一基地航空部隊指揮官ハ陸攻及艦攻全力ヲ「トラック」ニ派遣、内南洋部隊指揮官ノ指揮ヲ受ケシムベシ」[116]
- ^ 2月17日1622、聯合艦隊電令作第948号「一 一一航艦、二航戦移動可能兵力全力ヲ内南洋部隊ニ編入、速カニ進出セヨ/二 一三航艦中七〇五空、三三一空ヲ内南洋部隊ニ編入、速カニ進出セヨ/三 六一航戦ハ速ニ「マリアナ」諸島ニ進出セヨ/四 内南洋部隊指揮官ハ内南洋所在ノ陸上機全部ヲ第五基地航空部隊指揮官ヲシテ統一指揮セシムベシ[116]。
- ^ 明石は駆逐艦藤波、秋風と標的艦波勝および駆潜艇1隻に護衛されて19日朝にパラオへ向け退避している[215]。
- ^ 同艦は多くの資料で1943年3月6日にカビエン南方で矢風と衝突して沈没したとされるが、実際には前部煙突より前方を切断し大破しながらも曳船により曳航されトラックに入港し、修理されて停泊していたとされる。
- ^ 2月18日、零戦24機と艦爆14機[234]。19日、艦攻6機と艦爆14機。2月20日、陸攻4機、彗星3機および零戦37機。2月21日-28日、陸攻5機、艦攻2機、零戦14機および彗星1機。
- ^ 編制上、二十五航戦は南東方面艦隊に所属するが、実際は二十二航戦司令官の指揮下で内南洋方面作戦に従事した。
- ^ 当時造成されたばかりの新設飛行場で駐機スペースに余裕は無かった。
- ^ 天山はスマトラ島より海鷹で移送され11日に到着したばかりで完全には展開していなかった。
- ^ 全体の数は下記を参照した。数的整合性はとらず原文のまま
トーマス・B・ブュエル『提督スプルーアンス』 学研、2000年、P358
#佐藤 P122 - ^ 吉田によれば駆逐艦6隻
- ^ 吉田によれば重巡は軽巡、駆逐艦は5隻
- ^ 第2発電機室に爆弾1発が命中して下甲板まで貫通したが、不発であったため被害は軽微。これが同艦では最大の被害であった[292]。
- ^ 17日、敵機撃墜×1被害なし深夜パラオに向かう途中座礁。18日、艦長重症、副長、砲術長以下9名が戦死し総員退去。19日、潮が満ちて自然離礁し漂流[293]。
出典
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海軍丁事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 18:57 UTC 版)
日本側はトラック島におけるこの失態を、2月16日-17日に警戒を緩めさせた指揮官の判断ミスとした。これを海軍丁事件として処理している。資料によっては海軍T事件と表記するものもある。トラック島(Truk Island )の頭文字Tをとったものである。大本営海軍部(軍令部)は各種利害を検討した結果、連合艦隊の賛否にかかわらず中央から調査員を派遣することにした。調査団長大森仙太郎少将(当時、海軍水雷学校長)、調査員直井俊夫大佐(海軍大学校教官)、調査員池上二男大佐(航空本部部員)から成る調査団が編成される。調査団は3月にトラック泊地で調査を実施したが、すでに第四艦隊司令長官は原忠一中将、四艦隊参謀長は有馬馨少将に交代していた。「大局的に見て、この少ない兵力をもってあの攻撃に対処するには、誰が作戦指導をしても大同小異の結果であったろう」との結論を出している。戦後の回想では「飛行機の指揮系統に若干不備の点あり。トラックの空襲はやむを得なかった。トラックもサイパンも至急防備充実の要ある」であった。 日本側では調査団の結果を待たず、一定の処分が実施された。まず、現地指揮官である第四艦隊司令長官小林仁中将が2月19日に原忠一中将と交代し、31日には予備役に編入された。トラックを管理する第4根拠地隊司令官の若林清作中将も、同日付で有馬馨少将と交代した。ただし、小林中将は持病によりすでに転勤が予定されており、更迭は空襲と無関係という意見もある。最終的に、3月4日に第四艦隊と第十四航空艦隊をもって中部太平洋方面艦隊(司令長官南雲忠一海軍中将)が新編され、日本陸軍第三十一軍をも麾下において中部太平洋方面全般の作戦指導を行うことになった。また第一航空艦隊をマリアナに、第二十二航空戦隊と第二十五航空戦隊をトラック方面に、第二十六航空戦隊をペリュリューに配備し、3月4日に二十二航戦と二十六航戦で第十四航空艦隊(司令長官南雲忠一海軍中将、中部太平洋方面艦隊司令長官兼務)が新編された。 トラック島空襲(海軍丁事件)が大本営に与えた衝撃は甚大であった。大本営海軍部(軍令部)は空襲の報告を受けて、大本営陸軍部(参謀本部)に「第一航空艦隊を直ちにマリアナに配備する。南東と南西方面航空機の大部分を東(トラック)に転用する。海軍はウェーク、南鳥島、マリアナを固めるので、陸軍もマリアナ、南鳥島、小笠原の戦備を優先してほしい。また第十四軍(フィリピン)と第二方面軍(豪北)の戦備も急いでもらいたい」と連絡した。 2月20日、トラック空襲を体験した陸海軍両統帥部次長は東京に戻る。大本営陸海軍部は絶対国防圏の強化について検討をおこなうが、ここでトラック泊地を前衛拠点として見るか(マリアナ強化優先、陸軍側主張)、絶対国防圏の一部として従来どおり戦力を増強するか(トラック防備優先、海軍側主張)、陸海軍の主張が対立した。陸軍側は「海軍はトラック方面の防備増強を優先したいというが、マリアナ方面の防備が遅れ、敵に突破される恐れはないか」として、マリアナ諸島とパラオ諸島の強化を主張する。海軍側は「マリアナ、カロリンの線さえ確保していれば、それ以西に敵機動部隊の行動は許さぬつもりだ。海軍としてはマリアナ~トラックでやれば勝ち目があるが、後に下がれば勝ち目はない。もしトラックを失えば、戦局はフィリピンに移る。トラックが敵機動部隊と潜水艦の基地になれば、日本側の損害は三倍になる。またトラックを日本側が保持していれば、メジュロやクェゼリンに対する奇襲も可能である」として、ひきつづきトラック泊地の確保を強調した。結局、トラック地区もマリアナ地区も「是非とも確保する必要がある」との結論に至った。陸軍省側では、トラックどころかマリアナの強化も怪しいと判断し、陸軍だけでも本土防衛の強化をはじめようという機運も生まれた(マリアナ放棄論)。さらに陸軍軍務局長佐藤賢了少将のように、マリアナ・カロリンを放棄してフィリピンで最終決戦を行おうという意見も出た。 また、海軍丁事件は軍と政治中枢にまで大きな影響を与えた。2月19日、内閣改造の一部として運輸通信大臣(船舶担当)は八田嘉明から五島慶太に交代した。2月21日、参謀総長杉山元と軍令部総長永野修身が共に更迭される。陸軍大臣を兼務していた内閣総理大臣東条英機、海軍大臣嶋田繁太郎がそれぞれ兼務するものとされた。これにより、統帥権独立の観点から分離されていた軍令系統(参謀総長・軍令部長)と軍政系統(陸軍大臣・海軍大臣)が、慣例を破って兼務される異例の状態が生じた。首相も兼ねていた東條英機に権力がさらに集中したため、「東條幕府」と揶揄された。
※この「海軍丁事件」の解説は、「トラック島空襲」の解説の一部です。
「海軍丁事件」を含む「トラック島空襲」の記事については、「トラック島空襲」の概要を参照ください。
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