海軍トップとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:04 UTC 版)
東郷平八郎とは『宮様と神様(殿下と神様)』と呼ばれ、海軍内で神格化されていた。博恭王は大艦巨砲主義者であったので、博恭王の威光を利用した艦隊派の台頭を招くことに繋がった。これについて井上成美は、皇族が総長に就くことで、意見の硬直化を招いたことを「明治の頭で昭和の戦争をした」と称して批判している。博恭王の総長退任時に及川古志郎海相に意見を求められた井上は、「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」「宮様が総長だと次長が総長のような権力を持つことになる」と手厳しく批判している。これらのことから、海軍内の条約派を追放し、日米開戦の元凶になった一因となったとして、戦後は批判的な評価を受けることが多い[誰によって?]。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}開戦時の嶋田繁太郎海相が避戦派から開戦派に転向したのも伏見宮の働きかけによるとされる。伏見宮は昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めていたが、総長にあと1年長く在任していれば、開戦責任を問われて戦犯とされていた可能性も高く、もしそうなっていれば開戦責任のみならず、皇室の責任、さらには天皇制存続の可否にまで波及した可能性すらあったという。海軍反省会でも博恭王の戦争責任について問題提起されたが、皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかった[要出典]。 反面、博恭王自身は日米戦について「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という『早期決戦・早期和平』の考えを持っていたとされ、実際にその様な内容を昭和天皇にも上奏を行っている。艦隊派の重鎮であった博恭王とは反対の立場であった『欧米協調派』の山本五十六とは、日米戦について近い考えをしていたと考えられる。
※この「海軍トップとして」の解説は、「伏見宮博恭王」の解説の一部です。
「海軍トップとして」を含む「伏見宮博恭王」の記事については、「伏見宮博恭王」の概要を参照ください。
- 海軍トップとしてのページへのリンク