海軍大臣時代とは? わかりやすく解説

海軍大臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:00 UTC 版)

山本権兵衛」の記事における「海軍大臣時代」の解説

1898年明治31年)、西郷従道推薦により47歳第2次山縣内閣海相就任しその後日露戦争終結するまでの約8年という長きわたって事実上海軍トップとして君臨した山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点当時海軍目標として、様々な施策行った。「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦半分沈め覚悟だ」とも公言している。 士官には海外留学奨励し秋山真之広瀬武夫などの多数青年士官米国英国ロシアなどへ派遣した士官教育力を入れと共に能力ある兵卒途中からでも士官になれる制度作り佐官まで昇進した者も数名出た国内製鉄所造船所整備し戦時における修理・補給体制充実させた。また当時燃料としては最高級英国炭を全艦船燃料として採用した艦上での食事改良にも力を注ぎカレーライス肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立奨励し乗組員健康管理にまで目を配った当時日本では脚気問題であったが、栄養価の高い食事適度なパン食などで、乗組員脚気はほぼ皆無になった外交では日英同盟積極的に支持し海軍条項早期同意するなど、外務省協力した。この功績により1902年明治35年)、小村壽太郎と共に男爵叙せられる。 国内での艦船新造振興する一方で日英同盟配慮して英国発注し、また戦後好意期待して米国にも発注するなど、広い視野をもって行動した。また日英同盟によって当時世界の主要港支配していた英国中立化し、ロシアバルチック艦隊日本海までの長期航海における補給修理休養出来る限り妨害して日本海海戦前に疲労させた。 官房主事時代から取り組んできた海軍軍令部独立達成し明治天皇による初めての海軍軍服着用予算規模拡大などによって、海軍陸軍対等の関係まで進めた。また陸軍大陸へ兵站を守る海上権先ず第一義考え日露戦争ではウラジオストク艦隊次いで陸軍との協同作戦により旅順ロシア太平洋艦隊全滅させ、船舶通行の安全を図った開戦備え一方でロシア海軍勝て見込みが立つまで開戦反対続け用意整った判断する開戦賛成した開戦直前には東郷平八郎連合艦隊司令長官任命しそれまで人事慣例を破るものと批判されたが、人事権海軍大臣にあると断行した明治天皇理由尋ねられ東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話残っている。1904年明治37年)、東郷同時に海軍大将昇進した

※この「海軍大臣時代」の解説は、「山本権兵衛」の解説の一部です。
「海軍大臣時代」を含む「山本権兵衛」の記事については、「山本権兵衛」の概要を参照ください。

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