海軍への復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 15:54 UTC 版)
「サミュエル・サットン」の記事における「海軍への復帰」の解説
1790年のヌートゥカ危機(英語版)により、海軍本部は戦争に備えて、多くの人員と艦の確保を指示した。サットンは、この年の6月22日に32門のフリゲート艦イフィゲニア(英語版)のパトリック・シンクレア艦長の唯一の士官に任命され、リチャード・ハウの艦隊でもしばらく任務についた。ヌートゥカ危機の後戦争の可能性は低くなり、このため海軍の人員縮小が行われて、サットンは1791年2月7日に再び艦を降りた。その後フランス革命戦争の勃発と共に緊張感が高まって、また人員確保の機会が生まれ、1794年の1月3日、サットンは海峡艦隊の構成艦で、トーマス・リッチの旗艦であったカローデンに乗艦した。その年の11月には、チャールズ・コットン(英語版)艦長の74門艦マーズで任務につき、1795年6月にはウィリアム・コーンウォリス提督の第一次グロワの海戦(英語版)に参戦した。この時のルイ・トマ・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズ(英語版)率いるフランス軍は圧倒的だった。マーズはこの艦隊の最後尾にいて、フランス艦隊の砲撃の矢面に立たされたが、12人が負傷しただけですんだ。この時、コーンウォリスはマーズ艦長のコットンを救うために艦隊の向きを変えたところ、ヴィラレー・ド・ジョワイユーズは、近くにイギリスの援軍がいるものと思い込み、追跡を中断した。 1795年9月1日、サットンは指揮官に任命され、16門のスループ船マーティン(英語版)で西アフリカと北海で任務に就いた。1797年、北海での任務は、後のシャルル10世の長男であるアングレーム公爵を、リース(英語版)からクックスハーフェンへ送り届けることだった。これで功績をあげたサットンは、はやくも1797年6月27日に、ポストキャプテン(英語版)へ昇進を遂げた。しかしその後1年間、任務にはつかず。1798年9月3日にリチャード・オンスロー(英語版)のフラッグキャプテンとして復帰し、モナークに乗艦した。この間は、その21年前に、かつての指揮官ジョシュア・ロウリーのもとで、熟練船員として任務に就いた艦だった。翌1799年の3月にはやはりかつての上官であり、今や少将となったチャールズ・コットンのフラッグキャプテンとして、90門艦プリンス(英語版)に乗った。その後、1801年2月23日に32門のアルクメネ(英語版)に転属されるまで、プリンスで任務を続けた。
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