海軍の船団護衛参加と駆逐艦の輸出
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「第一次世界大戦下の日本」の記事における「海軍の船団護衛参加と駆逐艦の輸出」の解説
さらにイギリスの要請を受けて、日本海軍はインド洋方面でもドイツ東洋艦隊の「エムデン」対策のため、巡洋戦艦「伊吹」を船団護衛に協力させた。 1914年9月にグレイ外相から、物資をすべてイギリスが負担する条件で巡洋戦艦部隊を地中海、さらに他の海域にも派遣するよう要請があった。加藤外相は、日本海軍に外征を行う準備がなく国民感情的にも難しいと拒否した。10月にはバルト海への派遣が、11月には駐日大使から「戦後の発言権強化のため」にとダーダネルス海峡封鎖作戦への参加が要請されたが、日本はこれらを拒否した。日本政府による頑なな拒否の背景には、参戦時にイギリス政府が戦域制限を設けようとしたことに対する反感もあった。 その後、1917年にドイツ海軍による通商破壊が活発化すると、イギリスを含む連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。これを受けて大日本帝国海軍は、インド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。また、1917年2月に、巡洋艦「明石」及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し艦隊は合計18隻となった。 第二特務艦隊は、派遣した船舶数こそ他の連合国諸国に比べて小規模であったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出し 連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した。 そのような中で駆逐艦「榊」はオーストリア=ハンガリー帝国海軍の潜水艦「U27」からの攻撃を受け大破し59名が戦死した。「榊」の修理には8か月を要した。他の戦闘をあわせて地中海において日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後、マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。 Uボートによる無制限潜水艦作戦により、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。 また欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して輸出している(アラブ級駆逐艦)。
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