トラック泊地の日本軍航空兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 18:57 UTC 版)
「トラック島空襲」の記事における「トラック泊地の日本軍航空兵力」の解説
1944年2月時点における内南洋方面所在航空部隊の指揮系統は複雑であった。この指揮系統の複雑さは後日の海軍丁事件調査委員会でも問題視しており、調査団長だった大森仙太郎少将は「指揮関係が錯綜不明確であって(三つくらい独立?)、当時の状況としてはやむを得ない点もあったかと思うが、これでは敏活、統制ある作戦はできないはず」と回想・指摘している。 第四艦隊(トラック泊地、司令長官小林仁海軍中将)は第四根拠地隊(トラック泊地)と第二十二航空戦隊(テニアン島配備)を抱えていた。第四根拠地隊麾下の九〇二空は、サイパン島に水偵4以上、トラック泊地に水上偵察機11・水上観測機13・水上戦闘機10・大型飛行艇2機、メレヨン島に水偵4、パラオ諸島に水偵4を配備していた。第四艦隊麾下の第二十二航空戦隊のうち、七五五空はテニアンに陸攻約20機、五五二空はトラック泊地に艦爆15機、八〇二空はサイパン島に大艇5機以上を配備していた。 第十一航空艦隊(ラバウル所在、司令長官草鹿任一海軍中将、参謀長草鹿龍之介中将。十一航艦長官は南東方面艦隊長官を兼ねる)は第二十六航空戦隊と第二十五航空戦隊を隷下に置く。第二十六航空戦隊所属部隊のうち、二〇一空はサイパン島に戦闘機約25・トラック泊地に戦闘機8を配備する。二〇四空は、トラック泊地に戦闘機30以上を配備する。五〇一空はトラック泊地に爆撃機・戦闘機25以上を配備する。九三八空はトラック泊地に戦闘機5を配備する。十一航艦隷下の第二十五航空戦隊は、二五一空はトラック泊地に夜間戦闘機9以上を、五八二空はトラック泊地に艦攻9機を配備する。 第十三航空艦隊(スラバヤ所在、司令長官高須四郎海軍中将・南西方面艦隊司令長官兼務)の第二十三航空戦隊(ケンダリー所在)のうち、七五三空はテニアンに陸攻3以上、トラック泊地に陸攻約10機を配備した。十三航艦の第二十八航空戦隊(シンガポール所在)麾下の五五一空は、天山26機をトラック泊地に配備した(空母海鷹で輸送、2月11日トラック到着)。 第三艦隊(司令長官小沢治三郎海軍中将)隷下の第二航空戦隊(司令官城島高次少将)は、トラック泊地に戦闘機8を残留させていた。2月20日にトラック泊地に帰投した際には、三分の一に減少していた。 第六艦隊(司令長官高木武雄海軍中将)は水上偵察機7機を保有していた。 2月1日時点でマーシャル方面に配備していた第二十四航空戦隊が全滅したため、内南洋方面の航空兵力は第二十二航空戦隊と第二十六航空戦隊、連合艦隊総予備の七五三空と五五一空のみという状況であった。大本営は練成中の第一航空艦隊(大本営直属部隊、司令長官角田覚治中将)から三コ航空隊をマリアナ・カロリン・フィリピン方面に展開した。内地所在の五〇三空は二十六航戦に、三〇一空と二〇二空は第二空襲部隊(指揮官は二十二航戦司令官)に編入された。2月15日には、第一航空艦隊そのものが連合艦隊に編入された。2月10日の連合艦隊司令長官命令により、邀撃作戦全般は内南洋方面部隊指揮官(第四艦隊司令長官)が指揮し、航空邀撃作戦に関しては四艦隊麾下の第二十六航空戦隊司令官が統一指揮を行うことになった。 航空機による偵察・哨戒は七五五空(第四艦隊・第二十二航空戦隊)と七五三空(第十三航空艦隊・第二十三航空戦隊)がテニアン、トラックの両基地を使用して実施している状況であった。航空哨戒のパターンは3 - 5機程度の陸攻による1日2回(黎明、薄暮)が通例であった。アメリカ軍の攻撃直前の動きは下記のようになっている。 2月13日 - 黎明哨戒:トラックより陸攻5機。状況を得ず。薄暮哨戒:テニアンから陸攻3機。状況を得ず。 2月14日 - 黎明、薄暮共前日と同内容同機数。状況を得ず。 2月15日 - 黎明哨戒:トラックより七五三空の陸攻6機、2機未帰還。同時刻、トラック所在の第4通信隊は米空母艦載機の無線電話を傍受。薄暮哨戒は翌日の黎明索敵を実施することから不要として実施せず。またポンペイ島の守備隊が空母エセックスの電話を聴取する。 2月16日 - 黎明哨戒:トラックから天山艦攻9機、陸攻2機、未帰還機捜索を兼ねて出撃、全機異状なく帰投。0300(日本時間)以後、内南洋方面部隊(第四艦隊)、トラック方面第一警戒配備発令。 0800(日本時間) 同部隊、第二警戒配備へ移行。 1030(日本時間)トラック方面、第三警戒配備(平常配備)へ移行。第四艦隊参謀長は東京へ出張。薄暮哨戒は翌日の黎明索敵を実施することから不要として実施せず。 2月17日(日本時間)日出0509、日没1704。0420(日本時間)電探が敵機大編隊を探知、第四艦隊は第一警戒配備を下令。 0455(日本時間)五五一空の天山8機出撃(のちに1120より2機追加発進、2機とも未帰還)。 0540(日本時間)天山、トラック島北東80 - 100海里に米空母群を発見、0845まで触接。 0610(日本時間)天山、米空母群を発見、0950まで触接。 0810(日本時間)五五二空の艦爆2機、索敵のため発進したが未帰還。 2月16日の索敵結果を受けて、日本側は同日午前中に警戒体制を緩めた。ちょうど大本営陸軍部(参謀本部)の秦彦三郎次長以下瀬島龍三や服部卓四郎らと大本営海軍部(軍令部)の伊藤整一次長一行が南方視察行の途中でトラックに立ち寄っていた。早々と警戒体制を緩めたことには当時の兵士らにも奇妙に感じたとの声も多い。平常の態勢に早々と戻したのは、伊藤らを迎えて歓迎の宴を催すことになり、関係者らがそれに出席したかったからだとする噂が、兵士らの間で事件後流れた。(当時の料理屋でのこの種の宴が、単に芸者を呼ぶだけではなく、しばしば、接待主側が代金を持つ形でその後の性接待まで含むような宴であったことを踏まえておく必要がある。とくに滅多に来ることのない大物を接待するための歓迎会となれば、出席予定者らはその宴はまず間違いなくそういう宴で、自分らもお相伴にあずかれるような宴であろうと期待することになったと思われる。)また、その宴を16日の晩に夏島の料理屋で催したため、空襲がはじまると指揮官達は各自の島に戻れなくなった……という噂がある。なお次長一行は翌17日の空襲に遭遇し、18日サイパン到着(秦次長はサイパン島防備について懇談)、20日東京に戻った。また士官の人事異動のため深夜まで送別会を開いており、多くの者が陸上施設に泊まり込んでいた……という噂もあった。元海軍大尉の佐藤清夫(トラック島空襲時、駆逐艦野分乗組)によれば、五五一空の肥田真幸飛行隊長(機44期、当時海軍大尉)や整備長の回想に「司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまい」という記述があっため、瀬島に手紙で質問した。瀬島からは、陸軍単独の視察であったが、料亭に泊まった士官は居り、空襲に対する警戒心が弛緩している傾向は見られた旨の返信があったという。 戦後、海上自衛隊幹部学校教官を務めた竹下高見(元海軍軍人)が、本空襲についてのセッションで、事前警戒の不備問題について、「(前略)トラックとか、テニアンとか、サイパン辺りは、意識の問題もあると思うんですね。同時にやっぱり、さっきいったように防備施設というようなものは、中央の問題もあると思うんです。私は、戦史部におります時に、小林中将に二回ほどなんとか聞きだそうと思いまして、お話伺いましたけれども、トラック空襲については一言もしゃべられませんでした。そのことから『太平洋方面の海戦』の中では『専任防空戦闘機隊の不在、所在航空機部隊の不明確な指揮関係、多数商船隊の在泊など、むしろ連合艦隊司令部あるいは大本営海軍部が事前に適切に処置すべき問題が多かったように思われる。』という表現になったわけです」と語っている。
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