第二十六航空戦隊司令官
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1944年4月9日、第26航空戦隊司令官。 あ号作戦を前に第26航空戦隊司令官に就任し、フィリピン、ミンダナオ島ダバオに将旗を揚げたが、上級管理司令部たる第1航空艦隊が所在地テニアンで玉砕したため、一時期指揮系統が混乱するに至る。この時ダバオで有馬に面会した日辻常雄(空技廠飛行実験部)によれば、有馬は潜水艦の支援を受けた二式飛行艇によるパナマ運河空襲を計画していたという。 捷一号作戦を前に第1航空艦隊司令部は再建されフィリピン諸島防衛が任務とされたが、第26航空戦隊は第1航空艦隊が直接指揮する事になった。10月、台湾沖航空戦発生。有馬少将は台湾沖航空戦で大本営からもたらされる大戦果の情報を信じておらず、従軍記者に対して「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と述べた。1944年10月15日に、幹部を集め、「これからは敵空母を沈めるためには、体当たり攻撃が必要です。そのためには若い士官や兵隊だけを死なせるわけにはいきません」と特攻を行うなら上級指揮官が搭乗すべきだと、志願者を募ったが集まった幹部は誰一人名乗りを上げなかった。するとそれまでの温厚な口調を一転し、「誰もおらんのか!よし、それなら私が乗ろう」と怒鳴ると、参謀や副官が止めるのも聞かず司令自ら一式陸攻に搭乗した。自ら出撃したのは有馬少将が常日頃から「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と言っており、一身を犠牲にして手本を示そうとしたためと言われる。有馬少将は出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた『司令官』という文字を削り取っており、元々生還する気はなかった。特攻できたのかどうかについては異論もあり、米軍の記録には有馬機による被害報告はない。また、有馬機が敵艦に突入したところを目撃した僚機もない。この体当たりは大西瀧治郎についで特攻開始に影響を与えた。クラーク基地で作戦中の陸軍第二飛行師団参謀の野々垣四郎中佐によれば「これは大きなショックを感じ、その後の特攻へ踏み切る動機となった」という。 1945年(昭和20年)1月7日、戦死公報を以って海軍中将に特別昇進。49歳没。墓所は鹿児島県日置市広済寺に所在。
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