第五基地航空部隊(第一航空艦隊)
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「捷号作戦」の記事における「第五基地航空部隊(第一航空艦隊)」の解説
フィリピンでの基地航空部隊の中核となる第一航空艦隊だが、司令部はテニアンにあり敵の侵攻の最前線であった。司令部の収容とダバオへの転進が決められ、航空機による輸送や伊号第四十五潜水艦、伊号第二十六潜水艦などによる収容計画なども実施されたがどれも成功せず、7月31日に司令長官・角田覚一中将以下司令部全員がテニアンで玉砕してしまう。 一からの艦隊再編となった第一航空艦隊は、新たに寺岡謹平中将が司令長官となり8月12日にダバオに進出、航空隊の再編に尽力した。貴下の各航空戦隊のうち、トラック諸島に司令部を置く第二十二航空戦隊は引き続き同地を拠点とし、新たに東カロリン航空隊を配属した。同戦隊は中部太平洋に侵攻するアメリカ軍艦隊を奇襲漸減する基地として期待された(フィリピン方面への転進が困難となったという実情もある)が、アメリカ軍の空襲の激化により戦力が疲弊し、捷号作戦での活用は望めなかった。 一時的に南西方面部隊の指揮下に入り、ニューギニア北西部で作戦を展開していた第二十三航空戦隊は拠点をケンダリーとし、ビアク・アンボン・ラングールなどに部隊を展開、ダバオに所在する第二十六航空戦隊は司令部直轄の航空部隊の再編に当たった。ペリリューに拠点を置く第六十一航空戦隊司令・上野敬三少将はテニアンで孤立する角田長官より7月12日付で指揮の代行を命じられたが、ペリリュー島自体も最前線となりアメリカ軍機の攻撃を受けている状態であり、第二十六航空戦隊司令・有馬正文少将に戦力の増派を要請したが、有馬司令はそれを断っている。 なお第六十一航空戦隊は8月22日に拠点をダバオに移すよう兵力部署の改定が行われ部隊の転進が順次実施され、9月15日から始まったペリリュー島の戦いの時点では西カロリン航空隊(大谷龍蔵大佐指揮)の702名の他、第45警備隊ペリリュー派遣隊や通信隊、設営隊など3646名の地上要員が残されていた。彼らは陸軍側の指揮官・中川州男大佐の指揮下に入り防衛戦に参加、パラオ本島から西カロリン航空隊副長の遠藤谷司中佐以下60名が逆上陸に成功して守備隊の増援となるなどの救援措置も取られたが、結局同島は2か月の奮闘の末に壊滅し、要員の殆どは戦死した。 司令部は捷号作戦の準備に際し、アメリカ軍では既に採用していた「反跳爆撃戦法」の採用を決定。初期よりこの戦法採用を提案していた高橋定少佐を横須賀空より招致して訓練を重ねた。 8月19日、連合艦隊電令作第278号が発令され、それを受けた寺岡司令長官は第二十六航空戦隊司令部をニコルズ第一基地への転進、翌20日には第六十一航空戦隊のダバオへの転進を指示、これにより南フィリピンの整備の目途が立ったと考えた寺岡司令長官は、予定通り司令部のマニラ移転を決定し9月2日に予定する。しかし司令部設備の施設工事の遅れで移転を9月10日に変更するが、9日にアメリカ軍機動部隊が南フィリピンに来襲、更に10日に「ダバオ誤報事件」と言われる一大不祥事が発生してしまう。 9月9日、それまで西カロリンに猛攻を加えていたアメリカ軍機動部隊は一転して南フィリピンに大空襲を仕掛ける。その数は延べ数で約400機に及んだ。第一航空艦隊は8月下旬に実施された航空戦隊の南フィリピンから中部フィリピンへの移動などで航空機の損害は軽微(地上にて5機が大破)だったが地上施設に相当の損害が生じた。またこの空襲は全くの奇襲となり、部隊の早期警戒網が十分ではないことが実証された。 空襲を受けたダバオでは、所在の第三十二特別根拠地隊より、貴下の各隊に「近く敵の上陸があるかもしれないから警戒を厳重にせよ」と注意喚起がなされた。翌10日4時ごろ、ダバオの南方に位置する小湾サランガニ湾にあるサランガニ見張り所より「湾口に敵上陸用舟艇が見える」との一報が根拠地隊司令部に届く。司令は第一航空艦隊司令部に通報し夜明けに航空偵察を実施してもらうよう依頼したが、サランガニ警備隊は8時ごろに「湾口に上陸用舟艇多数みゆ」「陸軍と協力水際でこれを殲滅戦とす」とあわただしく打電、一航艦司令部は不審に思いつつもセブ基地に配備の偵察機による偵察を指示するが、この指令の通達が遅れ偵察機の発進は16時05分となった。 9時30分にはダバオ見張り所も「敵水陸両用戦車がダバオ第二基地に向かっている」と通報。根拠地隊司令は不審に思い確認を命じたが、直後に見張り所の指揮官(兵曹長)自らが司令部に赴き「自ら確認しており来襲は間違いない」と報告したので、根拠地隊は敵のダバオ上陸を信じ陸戦準備が貴下の各隊に伝えられ、暗号書の焼却も開始された。しかし同根拠地隊は陣地構築も防衛部署の割り振りもできていなかった為大混乱となり、司令部のダバオから後方のラパンダイへの後退も始まった。この際根拠地隊司令はこれら一連の情報を何故か上級司令部に報告する手続きをとっておらず、艦隊司令部が状況確認を取るのに苦労する要因となる。 一航艦司令部ではサランガニとダバオの情報に不審を抱いていた。しかし正午過ぎに根拠地隊司令より司令部撤退の連絡を受け、水上警備隊からも准士官伝令で「敵戦車上陸開始」との知らせを聞いたことで寺岡長官は敵の上陸を信じ、一転して機密文書の第一次処分と航空隊に陸戦用意を発令、また同時に攻撃戦闘部署を発動し貴下部隊に報じた。また参謀を根拠地隊司令部に派遣し状況を聴収させ、13時50分に「敵上陸用舟艇サマール島北西に集結しつつあり」と打電させた。 この頃根拠地隊司令部はさらに後退してミンタルに至り、陸軍の第百師団に合流した。その報告を受けた寺岡長官は陸路バレンシアへの移動を決意し15時にダバオを発するが移動の途中ダバオ及びダバオ第二飛行場付近に敵らしいものが見えないことから、再度敵上陸の報に疑念を持つ。そこで、一航艦隊猪口力平主席参謀は小田原俊彦参謀長と松浦参謀にダバオ第1飛行場に残った零戦で湾内を偵察するように指示、また猪口の指示とは別に、第二〇一海軍航空隊副長玉井浅一中佐も、根拠地隊司令部から色々と情報が伝えられてきたのにも拘わらず1発の砲声すら聞こえなかったので、残った零戦でサランガニ湾を偵察飛行したが、敵の姿は全く見えなかった。猪口の指示でサランガニ湾を偵察した小田原と松浦も敵影を発見することができず、ダバオ第二飛行場で猪口と合流してその旨を報告した。玉井からの報告も受けた猪口ら一航艦司令部は16時37分に「飛行偵察の結果、ダバオ湾内には敵の艦船を認めず、海岸地帯にも異常なし」との取り消し電報を全部隊に打電した。のちに軍令部の調査隊の一員として、ダバオ現地でこの誤報事件を調査した奥宮正武中佐は、一航艦、根拠地隊、陸軍の師団長の3人もの中将がおり、大勢の参謀がついているのに、わが海軍始まって以来の空騒動を起こしたことを不可解と感じたという。 連合艦隊はダバオ上陸の報を受けて15時32分「捷一号作戦警戒」を発令し、南西方面部隊もダバオ方面に敵来襲の際の邀撃作戦を意味する「D作戦」を発動した。一航艦司令部は誤報を受けてバレンシアに撤退する前に、第二十六航空戦隊司令官有馬正文少将に一航艦の航空隊の指揮を委ねるという発令をしており、これを受けて各航空隊のセブ基地への進出を命じ、自身も18時30分にセブ基地に降り立った。集結したのは零戦89機、彗星艦爆9機、九九艦爆3機であった。南西方面部隊は現地情報が得られないので一航艦司令部や第三十二特別根拠地隊司令部にあてて幾度となく敵上陸の有無の連絡を打診したが、連合艦隊や南西方面部隊にダバオ上陸の事実はないという連絡が届いたのは一航艦が発した19時46分発の返電であり、連合艦隊司令部は翌11日早朝に捷一号作戦警戒を取り消した。 陸軍側は現地の第百師団が早くから敵上陸の報に疑念を持っていたので、これら一連の上陸情報を上級司令部に報告せず、夕刻に虚報と判明しると経過報告のみ行った。このため上級司令部や関係他部隊の混乱は起こらなかったが、師団内では確認に時間がかかったこともあり師団通信隊で固定無線機を破壊し退避したりするなど、市内の部隊には混乱が発生していた。 11日、一航艦は敵来襲の兆しもないことから予定されたマニラへの司令部移転を実施する。しかし翌12日、アメリカ軍機動部隊による再度の大空襲が実施される。セブ基地では9時20分から11時30分にかけて戦爆連合約130機が襲来し、基地にあった航空機のうち25機が完全破壊され49機が損傷するという大損害を受けた。陸軍機も65機が損害を受けている。空襲は翌13日14日にも実施され、これによって第一航空艦隊は誤報事件前には実働機250機にまで回復していたものが12日には99機にまで低下してしまった。 9月23日、寺岡第一航空艦隊司令長官は艦隊の実働航空戦力を零戦25機・陸攻14機・天山20機・艦爆2機・月光1機・陸偵1機と報告する。この戦力は計画数の4分の1に過ぎず同長官をして「9月は苦月」と評せしめた。同艦隊はこれ以上の消耗を回避し保存蓄積する以外に手立てはなく、損耗を極力控えるよう麾下部隊に指示した。南西方面部隊はこれを受けて南西諸島に展開予定の第六基地航空部隊(第二航空艦隊基幹)のフィリピン進出を要請する。しかし連合艦隊は進出準備こそ指示したものの即時の展開は認めなかった。 その頃現地陸軍を統括する南方総軍では、アメリカ軍機動部隊が跳梁跋扈する現状を再認識し、従来の陸軍の「航空隊は敵攻略部隊攻撃を優先する」という方針よりも、海軍と協力してアメリカ軍機動部隊殲滅を図る方が良いのではと考えるようになり、大本営にその旨意見具申するが承認されるところまでには至らなかった。しかし9月24日に中部フィリピンへの空襲が起こると南方総軍は第四航空軍に対して機動部隊攻撃強化を下令するとともに機動部隊への攻撃の必要性を再度意見具申した。大本営は当初は従来通り陸軍航空隊は敵上陸部隊攻撃を主務として空母機動部隊への攻撃を控えるよう指示していたが、その後参謀を派遣して現地視察を行った結果、要望も無理からぬことと判断しこれを容認する。 これにより9月19日に第一航空艦隊と陸軍第四航空軍は現地協定「対機動部隊戦闘協定」を結び、陸軍航空兵力も敵機動部隊攻撃に使用することが可能となり、「捷号作戦に関する陸海軍中央協定」で取り決められた攻撃目標の分担は形骸化する。 戦闘協定締結後も第一航空艦隊は消耗した戦力の回復に努め、10月1日時点での展開配備航空戦力は以下の通りだった 甲戦闘機(零戦各型):保有数193機、内稼働数108機 丙戦闘機(月光ほか):保有数22機、内稼働数10機 艦上爆撃機(九九式艦爆、彗星):保有数16機、内稼働数8機 艦上攻撃機(九七式艦攻、天山):保有数33機、内稼働数30機 陸上攻撃機(一式陸攻各型):保有数27機、内稼働数21機 艦偵(彩雲ほか):保有数3機、内稼働数0機
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