タラワの戦いとその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:17 UTC 版)
「サウスダコタ (戦艦)」の記事における「タラワの戦いとその後」の解説
8月1日にバージニア州ノーフォークに帰還、21日に出航しエファテ島を経由して9月14日にハバナ港に到着。11月7日にフィジーに移動し、4日後に第8および第9戦艦部隊と共に出航、第50.1任務群、空母迎撃部隊の支援を行った(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。ガルヴァニック作戦によりギルバート諸島に対する攻撃がはじまり、空母部隊は11月19日にジャルート環礁、ミリ環礁への攻撃を行い、日本の飛行場を無力化した(ギルバート諸島沖航空戦)。部隊は続いてマキンおよびタラワへの上陸部隊に対する航空支援を行った(タラワの戦い)。サウスダコタは5隻の戦艦と共に12月8日に任務群を構成しナウルへの艦砲射撃を行い、艦砲射撃と航空攻撃によって海岸沿いの敵施設および飛行場は大きく破壊された。サウスダコタは12月12日にエファテ島に後退し維持および弾薬補給を行った。1944年(昭和19年)1月29日に再び戦闘に参加し、フリントロック作戦により空母部隊はマーシャル諸島のロイ=ナムル島を攻撃した。翌日サウスダコタは移動し、ロイ=ナムル島の日本の拠点に砲撃を行い、その後クェゼリン環礁、マジュロ環礁、ロイ=ナムル島への上陸部隊に航空支援を行う空母部隊と合流した。 2月12日にマーシャル諸島を出航したサウスダコタは2月17日と18日にトラック諸島の日本拠点に対する攻撃を開始(トラック島空襲)。6日後、マリアナ諸島に最初の攻撃を行う空母部隊の護衛を担当し、部隊は数度の航空攻撃を受け、サウスダコタは4機の日本機を撃墜した。2月26日にマジュロ環礁に帰還、3月22日まで停泊しその後第5艦隊の高速空母部隊と共に出撃した。部隊は3月30日から4月1日にかけて西カロリン諸島のパラオ、ヤップ、ウォレアイおよびウルシー環礁に対して空襲を行った。 サウスダコタは4月6日にマジュロ環礁へ帰還し、翌週に空母部隊と共に出航した。4月21日にホーランディアを攻撃し、翌日には上陸部隊支援のためアイタペ湾、タナメラ湾、フンボルト湾を攻撃した。4月29日および30日には空母部隊を護衛し、その後トラック諸島に戻り砲撃を行う。翌日サウスダコタはポナペ島への砲撃部隊に加わりこれを攻撃した。マジュロ環礁へ帰還し5月4日から6月5日まで維持作業を行った後、第58任務部隊に加わりサイパン島およびティニアン島への上陸作戦を援護した。空母部隊は6月11日に敵施設への攻撃を始め、サウスダコタおよび6隻の戦艦は艦砲射撃のため6月13日に空母部隊から分離した。サウスダコタはサイパン島のタナパグ湾に対して攻撃を行い、主砲および副砲で6時間以上の砲撃を行った。日本側は「あ号作戦用意」を発令した。 6月15日、連合軍はサイパン島上陸を開始した。連合艦隊はテニアン島に司令部を置く第五基地航空部隊(指揮官は第一航空艦隊司令長官角田覚治中将、参謀長三和義勇大佐)にアメリカ艦隊攻撃を命じた。同15日午後、トラック泊地から飛来した天山11機は空母又は戦艦1隻に魚雷2本命中、輸送船に雷撃火災1の戦果を報じ、5機がグアム島に帰投した。同15日夜、ヤップ島から日本軍攻撃隊(日本時間14時3分発進〈彗星3、零戦6〉、日本時間15時発進〈銀河10、零戦5〉)が飛来した。部隊指揮官は第521航空隊飛行長江草隆繁少佐であった。8機から12機の日本の戦闘機および爆撃機が偵察機部隊との戦闘をくぐり抜け任務群に対して攻撃を行い、サウスダコタは4機に砲撃し1機を撃墜、残る11機は他の艦による砲撃により撃墜された。喪失は銀河8(自爆1、未帰還7。江草少佐戦死)、陸偵1、彗星1、零戦1であった。
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