第五回内国勧業博覧会
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「内国勧業博覧会」の記事における「第五回内国勧業博覧会」の解説
1903年(明治36年)、第5回の大阪今宮での博覧会は、日本が工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟したことから海外からの出品が可能となり、14か国18地域が参加し、出品点数31,064点と予想以上の出品が集まった。この数字は、1900年(明治33年)パリ万博の37か国、1902年(明治35年)グラスゴー万国博覧会の14か国と比べてもあまり遜色なく、事実上小さな万国博覧会とみなしても差し支えないだろう。 当初、1899年に開催予定だったが、1900年のパリ万博、1901年のグラスゴー万博への参加準備のため延期された。 3月1日から7月31日まで。観覧人530万余。会場のイルミネーションと冷蔵庫などの新製品が評判となった。橋本雅邦「瀟湘八景」、寺崎広業「滝口入道」、岡田三郎助「読書」、和田英作「こだま」、米原雲海「幼児と林檎」、赤塚自得「荒磯図額」、濤川惣助「雲月額」など。一方でアジアやアフリカの様々な民族を生きたまま展示する「学術人類館」が外交問題となった(人類館事件参照)。 博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。
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