大阪の新名所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 07:38 UTC 版)
1912年(明治45年)1月16日、「ミナミの大火」で難波新地から西高津新地、生国魂神社あたりまでが焼失した。ミナミの壊滅的な被害で繁華街の灯が消えることを危惧した南海鉄道の社長は、近代的なレジャーセンターを作って復興したいと考え大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけた。彼は当時、活動写真館や演芸場を経営し役者をアイドルとして売り出す才能の持ち主だった。南海の出資で彼はすべての娯楽を詰め込んだレジャーセンターを構想する。 焼け跡整理にあたり、現在の千日前通にあたる東西の通りが拡幅され電車通りとなる。同時に、電車通りにできた新しい千日前交差点の南西隅に、山川吉太郎は1914年(大正3年)5月に一大娯楽センター「楽天地」を建設、一躍市内のハイカラな名所となった。地上3階建てで多くの尖塔を持ち、中央には円形ドームを載せ、夜はイルミネーションで彩られていた。館内は大劇場と二つの小劇場で芝居・演劇・映画を公演した。大劇場では主に外国の映画を上映、小劇場「朝陽殿」は男性向けの漫才などの演芸場、小劇場「月宮殿」は琵琶少女歌劇で、悲恋物など若い女性向けの泣ける芝居を上映していた。この中の少女スターが後の名優田中絹代である。地下にはメリーゴーランド、ローラースケート場、水族館などもあった。屋上ドームを回る螺旋階段を登るとドーム上に大阪市内を見渡す展望台があり人気を集めた。
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