演劇・映画
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『演劇・映画』(えんげき・えいが)は、かつて存在した日本の月刊誌である。
略歴・概要
1922年(大正11年)5月には雑誌『女性』、1923年(大正12年)12月には雑誌『苦楽』(第1期)をそれぞれ創刊してきた大阪の化粧品会社・中山太陽堂(現クラブコスメチックス)が経営する出版社、プラトン社が、菊池寛の『文藝春秋』と同社の『苦楽』が組んだ「ドラマリーグ」で共同編集した映画と演劇のための雑誌である。編輯人(編集人)はプラトン社の川口松太郎、1925年(大正14年)の暮れに、創刊号(大正15年1月1日付発行)をリリースした。
まったく同時期の11月末に、東京の大日本雄辯會講談社(現講談社)が大衆娯楽雑誌『キング』を創刊(大正15年1月1日付発行)、いきなり50万部を刷って完売、増刷していた。これに対抗する新雑誌という目的もあった[1]。
プラトン社の小山内薫、川口松太郎、文藝春秋社の菊池寛、『苦楽』執筆者の江戸川乱歩らが執筆した。『苦楽』を編集した直木三十五(当時「直木三十三」)は、前年3月に奈良に映画制作プロダクション「連合映画芸術家協会」を設立、映画製作に乗り出し、編集の現場からは離れていた。1926年(大正15年)7月に発行した第8号「大正15年8月1日号」をもって、休刊となった。全8号。
『女性』と『苦楽』とはひきつづき、2年後、プラトン社が廃業する1928年(昭和3年)5月まで発行された。
同雑誌は、その後、復刻されている。
ビブリオグラフィ
- 大正15年1月1日号 (1925年12月発売) - 創刊号
- 大正15年2月1日号 (1926年1月発売)
- 大正15年3月1日号 (1926年2月発売) - 江戸川乱歩「半七劇素人評」掲載
- 大正15年4月1日号 (1926年3月発売)
- 大正15年5月1日号 (1926年4月発売)
- 大正15年6月1日号 (1926年5月発売)
- 大正15年7月1日号 (1926年6月発売)
- 大正15年8月1日号 (1926年7月発売) - 廃刊号
脚注
- ^ 松岡正剛の公式サイト「松岡正剛の千夜千冊」内の記事「直木三十五『南国太平記』上・下」(2001年8月24日)の記述を参照。
関連項目
外部リンク
演劇・映画
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ブルックリンは演劇や映画の舞台としても利用されてきた。ピューリッツァー賞も受賞した劇作家リン・ノットエイジの劇「Crumbs from the Table of Joy」は第二次大戦後のブルックリンを舞台としフロリダからやってきたアフリカ系の葛藤を描く。また世界的に有名なものでは俳優ジョン・トラボルタの代表作「サタデー・ナイト・フィーバー」がイタリア系居住地区として有名なベイリッジ地域を舞台にした他、セルジオ・レオーネ監督の遺作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」も禁酒法時代のブルックリン沿岸地域を生きたユダヤ人ギャングの物語となっている。劇作家ニール・サイモンの1983年の作品「Brighton Beach Memoirs」は1937年のブルックリンが舞台。1980年代後半になるとブルックリンはスパイク・リー監督の映画「She's Gotta Have It」「ドゥ・ザ・ライト・シング」の撮影舞台になったことから新たな風潮を見せ始め、2001年から2002年にかけてドイツ人映画監督のクリストファー・ウェイナートが「With Allah in Brooklyn」というドキュメンタリー映画を同地で作成した。2005年の映画「イカとクジラ」を監督したノア・バームバックは作家ジョナサン・バームバックとニューヨークベースの新聞ザ・ヴィレッジ・ヴォイスの映画評論家ジョージア・ブラウンの息子で、映画はパークスロープのインテリたちの生き様を描いた。
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