博覧会跡地の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:47 UTC 版)
「新世界 (大阪)」の記事における「博覧会跡地の開発」の解説
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。開発当初は「新巴里」「第二千日」と仮称されていたが、開業の際、「新世界」と改められた。 1911年に開業した阪堺電気軌道は、難波に拠点を置く南海鉄道と路線が競合することになった。ターミナルの立地面で不利な阪堺は、新世界を集客施設と位置づけ、その運営に深く関わっていく。南海は1914年、「ミナミの大火」で壊滅的な被害を受けた千日前に「楽天地」を開設し、対抗した。
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