三〇一空
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1944年7月10日、263空は解隊、第三〇一海軍航空隊(301空)戦闘301飛行隊に編入。ダバオに滞在中、笠井らは喧嘩になって相手を殴ったが、その相手は陸軍憲兵であり、笠井らの身柄引き渡しを301空に要求した。隊長菅野直大尉は、そんなやつは知らないし、部下は渡さないと断ったが、再三要求され、それを避ける意味もあり、菅野は派遣隊として笠井らを率いてヤップ島に移動。7月10日-23日、ヤップ島でB-24の迎撃に参加。笠井はこの戦闘で1度被弾し不時着水して救出されている。派遣隊は撃墜17機(不確実9)撃破46機の戦果を上げ、第一航空艦隊司令長官から表彰を受けた。笠井は表彰で書かれた程には落ちていないだろうと戦後語っている。その後はセブ島へ引き上げ、笠井らは反跳爆撃の訓練に入る。 10月、損耗した零戦を補充するために本土に派遣された菅野を隊長とした空輸隊に参加。レイテ沖海戦直後にマバラカットに帰還。10月27日、神風特別攻撃隊忠勇隊の直掩任務に参加。笠井と同期の野々山尚も特攻隊員に含まれていた。笠井によれば、野々山は直掩が笠井と知り、よろしく頼むぞと明るく話していたという。11月1日、上飛曹に昇進。 11月、前線基地のセブ島に着陸した菅野隊は現地部隊から機体不足を理由に零戦を取られた。中攻に便乗してマニラへ帰還することになるが、途中、P-38に襲われ「もう駄目です、皆さん諦めてください」と中攻操縦員が告げると菅野が「どけ、俺がやる」と操縦を交代し敵機の追撃を振り切りルバング島へ不時着、脱出直後中攻は爆破された。 特攻直掩に任務が続いたが、笠井は杉田庄一に連れられ、杉田とともに司令の玉井中佐に特攻の志願を行う。しかし、玉井は「特攻はいつでも行ける。俺の代わりに内地に行って豹部隊の墓参りをしてこい。そこで菅野に合流し指示に従え」と言われた。内地に帰還する途中、台湾で米機動部隊襲来に遭遇し、現地部隊から特攻を命じられて待機したが、内地で菅野が待っているから行けと取り消された。菅野と合流後、252空に編入され、桜花の直掩任務に当たる予定と説明されたが、その後取り消された。
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