三々の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 08:00 UTC 版)
囲碁の歴史の初期に隅への着点としてまず発生したのは小目であり、室町時代後期から江戸時代、明治時代にかけては三々はほとんど省みられなかった。特に本因坊家では三々は禁手とされており、その他の打ち手が打つ場合にも相手への挑発的な意図を込めて打たれるケースが多かったとされる。記録に残っているものでは、1838年(天保9年)の本因坊秀和-安井算知戦(先相先白番)で、9手目に秀和が空き隅に星へ打ったところ、10手目に算知が残りの空き隅の三々へ打っている。 長らく一人前の着点と見なされていなかった三々に光を当てたのは呉清源で、一手で隅を打ち切って辺への展開のスピードを重視する手法としてこれを多用し、布石の考え方に革命を起こした(新布石)。特に1933年、本因坊秀哉との対戦で三々・星・天元を連打する大胆な布石を披露し、大きな話題を呼んでいる。その後1960〜70年代にかけては坂田栄男・石田芳夫らが二隅三々を打つ「両三々」の布石を駆使して好成績を納め、流行の着点となった。 しかし布石において中央への発展性を重視する傾向が強くなる中、三々は徐々に打たれなくなった(中央志向の棋風で有名な武宮正樹は「三々は盤から落ちそうで打つ気がしない」と冗談を言っている)。三々は趣向あるいは特殊な状況での着点という認識が強くなっていた。しかし、AIの出現以降はこの認識が変わり、空き隅への三々がプロの間でも多く打たれるようになっている。
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