三〇二空とは? わかりやすく解説

三〇二空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:40 UTC 版)

小園安名」の記事における「三〇二空」の解説

1944年3月1日第三〇二海軍航空隊司令着任302空首都防空目的とした日本最大規模航空隊であった美濃部正少佐第二飛行機隊長として編入した際は、美濃部夜間攻撃部隊理解示したマリアナ沖海戦敗北サイパン陥落しB29空襲日本本土関東東海地方まで侵入するうになる首都方面302空はその迎撃あたった。また小園高木惣吉海軍少将神重徳海軍大佐と共に東條英機総理暗殺計画参加し暗殺実行後に実行者台湾へ逃亡の手助け役割分担していた。しかしサイパン陥落に伴う東条内閣総辞職により本計画実行されなかった。 1944年8月29日、兼横須賀鎮守府参謀10月15日大佐昇進10月末、フィリピン神風特攻隊開始小園302空零戦隊の13予備学生出身者だけを集めて特攻隊志願者募った。その他、小園関行男大尉下敷島隊の特攻についての訓辞行って志願者上官申し出るように募集もした。彗星隊の坪井晴隆曹長のように小園訓辞に深い感銘受けて志願決める者もいた。しかし、戦果上がらない特攻対し小園否定的になっていった1945年3月8日、兼第三航空艦隊参謀6月1日、兼第71航空戦参謀1945年昭和20年8月15日玉音放送により日本降伏し終戦した。しかし、ソ連による国体破壊恐れと共に自分提言無視して敗北重ねながら、あっさりと降伏決めた海軍上層部反発した小園連合艦隊司令部と全艦隊に「302空降伏せず、以後指揮下より離脱する」と伝達小園玉音放送すら信じず、部隊に「日本神国降伏はない、国体反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う。翌日から陸海軍国民など各地檄文撒き呼びかけ回った厚木航空隊事件)。米内光政海軍大臣寺岡謹平海軍中将高松宮宣仁親王説得に当たるが納得しなかった。しかし小園マラリアにかかり野比海軍病院運ばれ監視下に置かれ302空20日副長菅原英雄中佐によって武装解除21日反対者鎮圧された。病室小園は「自分気狂いではない、正気だ」と訴えていた。「マラリア罹患した」という点について、小園長男は「マラリアではなく、軍によって寝室秋水燃料補助剤がまかれ、錯乱状態になった」と主張している。

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三〇二空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:29 UTC 版)

赤松貞明」の記事における「三〇二空」の解説

1944年昭和19年1月内地帰還し本土防空のために新設された第302航空隊配属赤松雷電隊・零戦隊の若者たち空中戦闘方法教えており、飛行学生卒業したての若い士官たちも赤松のことを親しみ込めて松ちゃん」とよんで尊敬していた。 1945年昭和20年2月17日、米艦載機群による関東地区空襲の際には、まずは午前中迎撃零戦8機の一番機として出撃し、ちらつく東京湾上空で、米海軍第58機動部隊十数機のグラマンF6Fヘルキャット戦闘機交戦射撃一撃目、二撃目でグラマンF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜。しかし、この午前戦闘での列機の被害大きく午後残された2機のみで再出撃赤松相模平野上空引き上げF6Fヘルキャット戦闘機編隊に後上方から襲いかかり、午後空戦でも最初一撃で1機を撃墜。この日列機とあわせ合計5機のヘルキャット戦闘機撃墜報告午前赤松の列機は、若い士官中尉望んで松ちゃん」の列機で飛びたいと言った者だった。後ろ上空味方編隊がいてくれるところで、零戦2機でF6F 20機ほどの編隊への攻撃入った赤松攻撃まえに他のF6F編隊上空にあることも目視確認していた。彼は2機をたてつづけ撃墜した。列機も1機を初撃墜した。攻撃した相手編隊は3機撃墜された後、上空零戦隊のカバー範囲の外へ退避し、それを見た赤松はそこで引き返した。しかし若い列機は血気はやって深追いし戻ってこなかった。 午後赤松は再び零戦邀撃戦闘上がった今回は2機だけだった相模平野上空4000mを零戦2機だけで飛行中下方グラマンF6F 50編隊帰途相模湾向かっているのに遭遇した上空優位から攻撃し1機撃墜したが、空戦中に優位の高度差をスピードにかえている有利が失われたので、その後はただ逃げ一手のみで色の濃い地上松林谷間陰をつかい身を隠しながら厚木まで帰ったグラマンF6F飛行機の上性能零戦よりはるかによいので上昇されたら零戦追いつけず、零戦はいったん速度落ちたら高度の優位回復することは不可能だったからだ。しかし若い列機は最初の1機撃墜のあと勝ちに乗じてそのまま次の相手攻撃かかっていってしまい、別の相手機から撃たれ撃墜されてしまった。列機の様子農夫上空戦闘最初から最後まで確認しており、知らされた。 1945年4月7日 この日以降来襲するB-29には硫黄島基地から多数のP-51が掩護ついてくるようになった厚木302空はこの日に夜間戦闘機隊が掩護のP-51により大損害を被ったので、夜間戦闘機隊の昼間邀撃戦闘それ以降中止され以後夜間に1機ずつ進入してくるB-29邀撃だけを担当した。この日の昼間赤松は列機1機とともに雷電出撃し、千葉県沖でP-51を1機個人撃墜、1機を列機と協同撃墜してきた。 また雷電隊も、掩護されたB-29対す攻撃は、以降はできなくなった専ら優秀な機体性能かつ編隊空戦熟練した搭乗員のP-51多数編隊と戦うこととなった302空翌日4月8日から1ヶ月間、沖縄菊水作戦支援九州鹿屋基地順次零戦隊、雷電隊を送り出した第1陣指揮官寺村純郎大尉赤松貞明少尉、そして若い片山市吾中尉4月12日片山中尉零戦制空隊として奄美大島上空交戦戦死留守中の厚木302空本隊4月19日大被害受けた福田中尉体調不良押して雷電搭乗し保土ヶ谷上空戦闘中、第15戦闘航空群第78飛行隊長ジェームズ・タップ少佐搭乗のP-51から攻撃を受け搭乗機左胴体部被弾次の瞬間搭乗機は火を噴いて空中分解し自身戦死したその後厚木雷電隊は九州鹿基地支援出した5月九州各地零戦隊、雷電隊は厚木本隊戻ったが、調子のよい雷電大村352空引き渡していて、厚木戻ってきた雷電エンジントラブル抱えた調子の悪い機体だった。 1945年5月29日 昼間横浜市B-29 500編隊による大空襲をうけた。この日、厚木302空戦闘機隊の組織的戦闘段階終了した赤松横浜市街上空で米陸軍ノースアメリカンP-51マスタング戦闘機75機の大編にたった1機で空戦挑み、1機を確実に撃墜し包囲網破り無事飛行場帰着するという離れ業演じている。 雷電隊、零戦隊は昼間の空襲備えて待機していたが、5月暫く昼間の空襲はなく、夜間空襲続いていた。その日昼間警報発令されB-29第1波10数機編隊の下を高度6000mで富士山方向から横浜方面進入してきた。その上方の下すれすれにP-51が約50機で掩護していた。厚木302空準備できたのは零戦8機、雷電8機、しかし実際に邀撃戦闘参加できたのは零戦8機と雷電3機だった。雷電エンジントラブルのため4機がエプロン発進中止離陸後にも1機が黒煙吹き出して飛行場戻った零戦隊8機はB-29編隊突っ込んだところを上空のP-51から攻撃されちりぢりになり、雷電3機も1機ずつちりぢりになって囲まれ多数機のP-51に囲まれ編隊攻撃受けた厚木302空邀撃11名中、未帰還2名を出した零戦隊は隊長機を含む5機、雷電隊は隊長機を含む2機を戦闘中撃破された。零戦撃墜戦死1機、搭乗員重傷帰還中の雷電小破1機は飛行場着陸手前まで来て墜落戦死、5名は炎上負傷戦闘空域離脱途中機外脱出し落下傘降下生還基地着陸したのは雷電2番機塚田浩機)1機、零戦隊3機だけで壊滅した翌日新聞で、空襲したB-29は約500機、P-51は約100機と報道され戦闘機機数の差に302空搭乗員たちの士気落ちた戦後に、5月29日横浜空襲したB-29517機、それを掩護機銃掃射したP-51は101機とされた。横浜全土焦土化し市民30名が被災し、約1万名の犠牲のため異様な焼けた臭いのする煙が立ち昇った。 来襲してきたアメリカ空軍報告では、この5月29日赤松中尉5月付で昇進)は零戦単機で第45戦闘機隊のP-51の75編隊飛び込んできたと伝えた赤松はP-51を1機撃墜したあと、多重包囲網攻撃の中をかいくぐって無事に戻っていった。対戦相手アメリカ陸軍45戦闘機トッド・ムーア中佐は、その空中戦闘アメリカ陸軍航空隊では名誉勲章(最高の勲章)に値するほど見事だった報告した同年6月10日にはオベル・S・ウッド大尉指揮下のB-29「シティーオブプロビデンス」(機体番号#42-63567)を機銃掃射撃破撃墜不確実だった搭乗員ウッド機長以下全員戦死した1945年6月23日午後B-29 3機、P-51 75機が関東地区来襲茨城県の各飛行場空襲した。若い上野典夫大尉雷電搭乗し邀撃戦闘千葉県上空でP-51と空戦入った被弾機外脱出し落下傘降下中にP-51の銃撃をうけて戦死同日午後邀撃戦闘雷電搭乗した赤松中尉河井繁次飛曹長の2機小隊は、相模原市上空下方を飛ぶ米陸軍ノースアメリカンP-51マスタング戦闘機2機小隊発見した赤松らは日本海軍雷電2機小隊で「摺り鉢戦法」による優位からの編隊空戦実施した急襲の初撃で1機撃墜した。列機の河井曹長機は上空掩護位置について残った相手機が体勢挽回のため隙をみてズーミング上昇しようとする機先牽制し抑え込みつつ、攻撃担当赤松機は垂直旋回ダイブ攻撃からのズーミング速度と高度を維持しつつ後上方攻撃繰り返す編隊空戦基本的な連携攻撃繰り返すことでP-51を計2機撃墜報告した7月雷電操縦して相模湾上空米海軍グラマンF6Fヘルキャット戦闘機渡り合い格闘戦の末これを撃墜したあと燃料切れとなり、横須賀航空隊不時着。「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料積めたらもっといいが」の言葉を残し補給後、厚木基地帰って行った1945年7月1日日映の「日本ニュース No.254 海の荒鷲雷電戦闘機隊」 において1945年初夏ごろの厚木基地で、降下体勢からの旋転ひねり込み仕方指導する赤松の姿がある。若年下士官搭乗員たちが飛行場そばで輪になって集まって赤松囲んで立ち、下士官搭乗員一人若手たちのなかで、小さな雷電模型を1機、右手もっている赤松両手雷電模型をもっている。搭乗員が「このように敵の追従をうけたとき、被追従者どのように逃げればよいでしょうか?」と攻撃姿勢降下中の飛行機模型を手に、その後ろ上から攻撃してきた敵機左手のひらで表現しつつ示すと、赤松中尉雷電模型を2機もちながら「右、右側からこのように攻撃されたら、操縦桿をぐいっと一杯倒す・・・」と、手で飛行機を下への動きをし、もう一度2機を上から下へやり、「このようになるが、ハーフロール(スプリットS)でそのままがっちゃあ、だめだ。」模型2つロール途中姿勢下方降下に、双方さがってゆく様子見せこのように、こう逃げるように。そうすれば相手はついてこれない、な。」(降下姿勢からロールをとめずにつづけて反対側に抜け上がってゆく腕の動きを示す。翼面荷重の重い米軍機は縦の動きについてこられない。)

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