三〇二空
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1944年3月1日、第三〇二海軍航空隊司令に着任。302空は首都防空を目的とした日本最大規模の航空隊であった。美濃部正少佐が第二飛行機隊長として編入した際は、美濃部の夜間攻撃部隊に理解を示した。 マリアナ沖海戦の敗北でサイパンが陥落し、B29の空襲が日本本土の関東・東海地方まで侵入するようになると首都方面で302空はその迎撃にあたった。また小園は高木惣吉海軍少将、神重徳海軍大佐らと共に東條英機総理暗殺計画に参加し、暗殺実行後に実行者の台湾への逃亡の手助けの役割を分担していた。しかしサイパン陥落に伴う東条内閣の総辞職により本計画は実行されなかった。 1944年8月29日、兼横須賀鎮守府参謀。10月15日、大佐に昇進。10月末、フィリピンで神風特攻隊が開始。小園は302空で零戦隊の13期予備学生出身者だけを集めて特攻隊志願者を募った。その他、小園は関行男大尉以下敷島隊の特攻についての訓辞を行って、志願者は上官に申し出るように募集もした。彗星隊の坪井晴隆飛曹長のように小園の訓辞に深い感銘を受けて志願を決める者もいた。しかし、戦果が上がらない特攻に対し、小園は否定的になっていった。 1945年3月8日、兼第三航空艦隊参謀。6月1日、兼第71航空戦隊参謀。 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送により日本は降伏し終戦した。しかし、ソ連による国体破壊を恐れると共に、自分の提言を無視して敗北を重ねながら、あっさりと降伏を決めた海軍上層部に反発した小園は連合艦隊司令部と全艦隊に「302空は降伏せず、以後指揮下より離脱する」と伝達。小園は玉音放送すら信じず、部隊に「日本は神国、降伏はない、国体に反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う。翌日から陸海軍、国民など各地に檄文を撒き呼びかけて回った(厚木航空隊事件)。米内光政海軍大臣、寺岡謹平海軍中将、高松宮宣仁親王が説得に当たるが納得しなかった。しかし小園がマラリアにかかり野比海軍病院へ運ばれ監視下に置かれ、302空は20日副長菅原英雄中佐によって武装解除、21日反対者も鎮圧された。病室で小園は「自分は気狂いではない、正気だ」と訴えていた。「マラリアに罹患した」という点について、小園の長男は「マラリアではなく、軍によって寝室に秋水の燃料補助剤がまかれ、錯乱状態になった」と主張している。
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三〇二空
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1944年(昭和19年)1月、内地に帰還し、本土防空のために新設された第302航空隊に配属。赤松は雷電隊・零戦隊の若者たちに空中戦闘方法を教えており、飛行学生卒業したての若い士官たちも赤松のことを親しみを込めて「松ちゃん」とよんで尊敬していた。 1945年(昭和20年)2月17日、米艦載機群による関東地区空襲の際には、まずは午前中、迎撃の零戦8機の一番機として出撃し、雪のちらつく東京湾上空で、米海軍第58機動部隊の十数機のグラマンF6Fヘルキャット戦闘機と交戦。射撃の一撃目、二撃目でグラマンF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜。しかし、この午前の戦闘での列機の被害も大きく、午後は残された2機のみで再出撃。赤松は相模平野上空を引き上げるF6Fヘルキャット戦闘機編隊に後上方から襲いかかり、午後の空戦でも最初の一撃で1機を撃墜。この日列機とあわせ合計5機のヘルキャット戦闘機の撃墜を報告。 午前の赤松の列機は、若い士官中尉で望んで「松ちゃん」の列機で飛びたいと言った者だった。後ろ上空に味方機編隊がいてくれるところで、零戦2機でF6F 20機ほどの編隊への攻撃に入った。赤松は攻撃まえに他のF6F編隊も上空にあることも目視で確認していた。彼は2機をたてつづけに撃墜した。列機も1機を初撃墜した。攻撃した相手編隊は3機撃墜された後、上空の零戦隊のカバー範囲の外へ退避し、それを見た赤松はそこで引き返した。しかし若い列機は血気にはやって深追いし戻ってこなかった。 午後、赤松は再び零戦で邀撃戦闘に上がった。今回は2機だけだった。相模平野上空4000mを零戦2機だけで飛行中、下方にグラマンF6F 50機編隊が帰途、相模湾へ向かっているのに遭遇した。上空の優位から攻撃し1機撃墜したが、空戦中に優位の高度差をスピードにかえている有利が失われたので、その後はただ逃げる一手のみで色の濃い地上の松林、谷間、森陰をつかい身を隠しながら厚木まで帰った。グラマンF6Fは飛行機の上昇性能が零戦よりはるかによいので上昇されたら零戦は追いつけず、零戦はいったん速度が落ちたら高度の優位を回復することは不可能だったからだ。しかし若い列機は最初の1機撃墜のあと勝ちに乗じてそのまま次の相手を攻撃にかかっていってしまい、別の相手機から撃たれて撃墜されてしまった。列機の様子は農夫が上空の戦闘を最初から最後まで確認しており、知らされた。 1945年4月7日 この日以降、来襲するB-29には硫黄島基地から多数のP-51が掩護についてくるようになった。 厚木の302空はこの日に夜間戦闘機隊が掩護のP-51により大損害を被ったので、夜間戦闘機隊の昼間邀撃戦闘はそれ以降中止され、以後は夜間に1機ずつ進入してくるB-29の邀撃だけを担当した。この日の昼間、赤松は列機1機とともに雷電で出撃し、千葉県沖でP-51を1機個人撃墜、1機を列機と協同撃墜してきた。 また雷電隊も、掩護されたB-29に対する攻撃は、以降はできなくなった。専ら、優秀な機体性能かつ編隊空戦に熟練した搭乗員のP-51多数機編隊と戦うこととなった。 302空は翌日4月8日から1ヶ月間、沖縄菊水作戦の支援で九州の鹿屋基地へ順次、零戦隊、雷電隊を送り出した。第1陣の指揮官は寺村純郎大尉、赤松貞明少尉、そして若い片山市吾中尉。4月12日、片山中尉は零戦制空隊として奄美大島上空で交戦戦死。留守中の厚木の302空本隊は4月19日に大被害を受けた。福田英中尉は体調不良を押して雷電に搭乗し保土ヶ谷上空で戦闘中、第15戦闘航空群第78飛行隊長ジェームズ・タップ少佐搭乗のP-51から攻撃を受け搭乗機左胴体部に被弾、次の瞬間搭乗機は火を噴いて空中分解し彼自身も戦死した。その後も厚木雷電隊は九州鹿屋基地へ支援を出した。 5月に九州各地の零戦隊、雷電隊は厚木本隊に戻ったが、調子のよい雷電は大村の352空に引き渡していて、厚木に戻ってきた雷電はエンジントラブルを抱えた調子の悪い機体だった。 1945年5月29日 昼間、横浜市はB-29 500機編隊による大空襲をうけた。この日、厚木302空戦闘機隊の組織的戦闘段階は終了した。赤松は横浜市街上空で米陸軍ノースアメリカンP-51マスタング戦闘機75機の大編隊にたった1機で空戦を挑み、1機を確実に撃墜して包囲網を破り無事飛行場に帰着するという離れ業を演じている。 雷電隊、零戦隊は昼間の空襲に備えて待機していたが、5月は暫く昼間の空襲はなく、夜間空襲が続いていた。その日、昼間に警報が発令され、B-29の第1波10数機編隊は雲の下を高度6000mで富士山方向から横浜方面へ進入してきた。その上方の雲の下すれすれにP-51が約50機で掩護していた。厚木302空が準備できたのは零戦8機、雷電8機、しかし実際に邀撃戦闘に参加できたのは零戦8機と雷電3機だった。雷電はエンジントラブルのため4機がエプロンで発進中止、離陸後にも1機が黒煙を吹き出して飛行場へ戻った。零戦隊8機はB-29編隊に突っ込んだところを上空のP-51から攻撃されてちりぢりになり、雷電3機も1機ずつちりぢりになって囲まれ、多数機のP-51に囲まれて編隊攻撃を受けた。厚木302空は邀撃戦11名中、未帰還2名を出した。 零戦隊は隊長機を含む5機、雷電隊は隊長機を含む2機を戦闘中に撃破された。零戦被撃墜戦死1機、搭乗員重傷で帰還中の雷電小破1機は飛行場着陸手前まで来て墜落戦死、5名は炎上・負傷で戦闘空域離脱途中に機外脱出し落下傘降下で生還、基地に着陸したのは雷電隊2番機(塚田浩機)1機、零戦隊3機だけで壊滅した。 翌日の新聞で、空襲したB-29は約500機、P-51は約100機と報道され、戦闘機機数の差に302空搭乗員たちの士気は落ちた。戦後に、5月29日に横浜を空襲したB-29は517機、それを掩護し機銃掃射したP-51は101機とされた。横浜全土は焦土と化し、市民約30万名が被災し、約1万名の犠牲のため異様な焼けた臭いのする煙が立ち昇った。 来襲してきたアメリカ空軍の報告では、この5月29日に赤松中尉(5月付で昇進)は零戦単機で第45戦闘機隊のP-51の75機編隊に飛び込んできたと伝えた。赤松はP-51を1機撃墜したあと、多重の包囲網攻撃の中をかいくぐって無事に戻っていった。対戦相手のアメリカ陸軍第45戦闘機隊トッド・ムーア中佐は、その空中戦闘はアメリカ陸軍航空隊では名誉勲章(最高の勲章)に値するほど見事だったと報告した。 同年6月10日にはオベル・S・ウッド大尉指揮下のB-29「シティーオブプロビデンス」(機体番号#42-63567)を機銃掃射で撃破。撃墜は不確実だったが搭乗員はウッド機長以下全員戦死した。 1945年6月23日午後、B-29 3機、P-51 75機が関東地区に来襲、茨城県の各飛行場を空襲した。若い上野典夫大尉は雷電に搭乗し邀撃戦闘、千葉県上空でP-51と空戦に入ったが被弾、機外脱出し落下傘降下中にP-51の銃撃をうけて戦死。 同日午後、邀撃戦闘で雷電に搭乗した赤松中尉と河井繁次飛曹長の2機小隊は、相模原市上空で下方を飛ぶ米陸軍ノースアメリカンP-51マスタング戦闘機2機小隊を発見した。赤松らは日本海軍の雷電2機小隊で「摺り鉢戦法」による優位からの編隊空戦を実施した。急襲の初撃で1機撃墜した。列機の河井飛曹長機は上空掩護の位置について、残った相手機が体勢挽回のため隙をみてズーミング上昇しようとする機先を牽制し抑え込みつつ、攻撃担当の赤松機は垂直旋回のダイブ攻撃からのズーミングで速度と高度を維持しつつ後上方攻撃を繰り返す、編隊空戦の基本的な連携攻撃を繰り返すことでP-51を計2機撃墜を報告した。 7月、雷電を操縦して相模湾上空で米海軍グラマンF6Fヘルキャット戦闘機と渡り合い、格闘戦の末これを撃墜したあと燃料切れとなり、横須賀航空隊に不時着。「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」の言葉を残し、補給後、厚木基地へ帰って行った。 1945年7月1日、日映の「日本ニュース No.254 海の荒鷲「雷電」戦闘機隊」 において1945年初夏ごろの厚木基地で、降下体勢からの水平旋転ひねり込みの仕方を指導する赤松の姿がある。若年下士官搭乗員たちが飛行場そばで輪になって集まって赤松を囲んで立ち、下士官搭乗員の一人が若手たちのなかで、小さな雷電の模型を1機、右手にもっている。赤松は両手に雷電の模型をもっている。搭乗員が「このように敵の追従をうけたとき、被追従者はどのように逃げればよいでしょうか?」と攻撃姿勢で降下中の飛行機模型を手に、その後ろ上から攻撃してきた敵機を左手のひらで表現しつつ示すと、赤松中尉は雷電の模型を2機もちながら「右、右側からこのように攻撃されたら、操縦桿をぐいっと一杯倒す・・・」と、手で飛行機を下への動きをし、もう一度2機を上から下へやり、「このようになるが、ハーフロール(スプリットS)でそのまま下がっちゃあ、だめだ。」模型2つをロール途中姿勢で下方降下に、双方がさがってゆく様子を見せ「このように、こう逃げるように。そうすれば相手はついてこれない、な。」(降下姿勢からロールをとめずにつづけて反対側に抜け上がってゆく腕の動きを示す。翼面荷重の重い米軍機は縦の動きについてこられない。)
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