夜戦能力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 23:36 UTC 版)
戦闘機に準じた機体強度と高速性能を持つことから、月光の夜間戦闘機化で実績のあった三〇二空司令の小園安名大佐などの進言により、一二型に20mm斜銃を追加装備(試作機のみ30mm機銃)した一二戊型(D4Y2-S)が製造された。夜間戦闘機型彗星は、帝都防空を任務とする三〇二空や三三二空、三五二空等などの本土防空部隊に配備され、主にB-29の迎撃に投入された。第三〇二空では月光と共に夜間戦闘機の主力として活躍、中芳光上飛曹と金沢久雄中尉のコンビはB-29を5機撃墜を報告している。横須賀海軍航空隊にも配備され、小園と協力して彗星の斜銃搭載に尽力した山田正治大尉が自ら夜間戦闘機型彗星で出撃し、斜銃でB-29を1機撃墜1機撃破する戦果を上げたのち戦死している。 夜間戦闘機部隊として編成された芙蓉部隊にも配備されたが、実際には敵艦や敵飛行場への爆撃に使用されている。そのため、芙蓉部隊では斜銃を撤去して使用していたが、沖縄戦後期では夜間戦闘機から撃墜される機体が増えたためその対策として、斜銃装備の夜間戦闘機型彗星をそのまま作戦に投入している。しかし、芙蓉部隊の彗星は夜間戦闘機とは名ばかりで、搭乗員は“進攻爆撃”任務特化の方針によって射撃訓練など空戦の訓練を行っていなかった。1945年5月中旬に、屋久島上空でP-61ブラック・ウィドウを目撃した彗星一二戊型搭乗の津村国雄上飛曹は、自分に空戦技術がないことを認識しており、アメリカ軍の強力な夜間戦闘機相手では返り討ちにあう確率が高いと判断し、攻撃せずに退避したが、津村の報告を聞くや跳梁する夜間戦闘機に苛立っていた美濃部は「なぜ斜銃を撃たなかった!?」と叱責している。 1945年6月10日には、夜間戦闘機月光でB-24を体当たりで撃破(のちに全損で廃棄)した戦績を有する芙蓉部隊所属の中川義正上飛曹-川添普中尉の搭乗する彗星一二戊型が、P-61と思われるアメリカ軍夜間戦闘機撃墜を攻撃し、これを撃墜したと報告している。(アメリカ軍の記録では、同日のP-61損失は戦闘・非戦闘いずれもなし)
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