沖縄戦後
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7月24日の呉軍港空襲では米艦載機16機撃墜を報告。しかし、戦闘701飛行隊長・鴛淵孝大尉、戦闘301・武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、今井進一飛曹、溝口憲心一飛曹を失う。武藤は杉田庄一の後任として転属したばかりで343空における初出撃だった。この戦闘の活躍で343空は御嘉賞の御言葉を賜わることになった。 8月に入ると343空は飛行機、搭乗員等の補充要求を一切やめた。福知山に移り夜間攻撃だけを敢行する予定であり、残った隊員と源田司令、志賀飛行長も出撃する予定であった。稼動機体は20機程度にまで低下していた。 8月1日は屋久島に飛来したB-24・P-51の戦爆連合を迎撃したが、菅野直大尉の搭乗する紫電改が機銃の暴発による機体の損傷から未帰還となる。管野の最後は僚機が確認できなかったため行方不明扱いとなり、後任は松村正二大尉が分隊長と兼任することになる。 8月8日北九州上空でP-47NとB-29からなる戦爆連合を24機をもって迎撃。 8月9日は整備の日であったため、長崎県大村基地で休養をかねた登山訓練中、隊員達は長崎市への原子爆弾投下を目の当たりにした。海軍は広島、長崎に続く原爆投下を阻止すべく戦闘機隊に対し、B29が単機で侵入した場合は体当たりで即時撃墜せよと命令を下した。343空司令の源田実大佐は第三の原爆はあってはならないと心に決め、「我が剣部隊も既に組織的な攻撃に対する機能は乏しくなった。もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら、俺が体当たり(特攻)をしてでも阻止してみせる。その時は本田分隊士、二番機をつとめてくれ」と話し、本田稔も決意した。二番機は司令機の援護ではなく、司令機の特攻でも落ちない場合にとどめをさす役割であった。本田は自分も特攻する決意でいたと話している。 12日試験飛行に上がった紫電改1機がP-51に撃墜されたのが、最後の戦いとなった。 1945年8月15日。初陣から終戦までの5ヶ月の間に約170機の撃墜を報告。自らの戦死・未帰還は78名、偵察隊・地上部隊含めると97名であった。最後まで343空では特攻の指導や命令が行われることはなかった。源田実、山田良市、小高登貫、笠井智一など343空は、勝てないまでも負けるとは思わなかった、敗戦を信じられなかったという。 終戦を受けて、源田司令は中央へ真意を確かめに行った。この間、大村基地では山に籠ってでも戦おうと機銃を外し準備が進められるが、部隊としての秩序は保たれていた。松山基地では17日も401飛行隊の訓練が行われた。19日帰還した源田司令から松山で「陛下の一言いかんともできない。重臣たちがそそのかしたものなら徹底抗戦のつもりだったが、自由もよい、民主もよい、今日から源田は一個人である。もうこうして諸君らと会うこともないだろう。国家再建は容易ではないだろうが頑張ってもらいたい。」と訓示がある。大村基地では「盡忠の誠足らず、事は是に至った。自ら軍令部に入り今回の放送は、陛下御自らの大御心であることが充分納得出来て今帰って来た。之以上戦を続けるとは不忠の臣となる。諸君は直ちに帰郷して祖国再建に立ち上がって欲しい。恐らくこの世の中で諸君と再び会うことはないと思う、皆元気で自分の志に進んで欲しい。」と訓示。訓示の際、高松宮宣仁親王の言葉「陛下を悲しませる行動はいけない。次の世代に譲れる日本の繁栄を復興するために自重せよ」も伝えられる。五航艦の指示で休暇が与えられ、事実上の解散となった。 戦争末期には、343空も衰弱したが、士気が衰えることはなかった。隊員には戦争末期における最強の戦闘機部隊であったと自負する者も多い。源田司令は「隊員らは厳しい時期に勝利感を味わって帰還していた、彼らは過酷な戦局の清涼剤のような働きをした、分が悪いと感じたのは8月ごろからだった」「あと4つ同じような部隊があれば敵進攻を相当制止できただろう」「圧倒的不利な条件下ではまあまあの戦いが出来た」「自衛官としてアリゾナ州ウィリアムス基地に招待された時、隊員たちの報告以上の戦いぶりを聞かされた」と語っている。
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