沖縄戦以降とは? わかりやすく解説

沖縄戦以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:29 UTC 版)

紫電改」の記事における「沖縄戦以降」の解説

詳細は「第三四三海軍航空隊」を参照 1944年昭和19年12月源田実大佐司令)の制空権奪還という構想によって松山基地編成され第三四三海軍航空隊通称「剣」部隊、以下「343空」とする)に紫電改優先的に配備された。「紫電改」と腕の立つパイロット組み合わせ、更に徹底的な改良施され無線機無線電話機)を活用した編隊空戦法により大きな戦果挙げ太平洋戦争中盤の1943年後半以降劣勢の度を濃くていった日本海軍戦闘機隊に、アメリカ軍中心とした連合国軍最新鋭戦闘機互角に戦え新鋭戦闘機として紫電改本土防空任務についた紫電改配備遅れたため、そろわない分は紫電代用していた。1945年昭和20年3月19日343空初陣で米艦上機160機に対し紫電7機、紫電改56機で迎撃して、米軍機58撃墜報告した(なお米軍側の記録では不時着含む機体損失14機、死亡8名である)。 343空活躍戦後は「遅すぎた零戦後継機」として認知され零戦、隼、疾風と並ぶ代表的な日本軍機として一般に認知される。その経歴ネーミングから人気の高い機体である。 五航艦の命令従い343空紫電改銀河彗星等の特攻機護衛任務就いたが、もともと特攻戦は想定しておらず、紫電改航続距離不足しており、奄美大島喜界島付近に特攻隊の前路哨戒制空戦闘実施した343空通常の援護ではなく紫電改制空権確保して突撃啓開することで経路確保する戦法とっていた。 紫電は、沖縄戦偵察十一飛行隊偵察十二飛行隊配備され台湾から出撃した。ここでは制空任務だけでなく、強行偵察戦果確認索敵任務投入された。本土防空戦にも数多く紫電参加した5月29日戦闘403飛行隊6機の紫電B-29迎撃して2機を撃墜7月8日には16機の紫電50機のB-29250機のP-51マスタング迎撃して4機を撃墜するなど、劣勢ながら奮戦している。1945年昭和20年2月17日の米機動部隊艦載機との戦闘では、紫電搭乗していた山崎卓(上飛曹)が横浜市杉田上空落下傘降下山崎降下の後に暴徒化した市民によって殺害され以降日本海軍ではパイロットに味方であることを示すため、飛行服及び飛行帽日の丸縫い付けることとなる。尾翼カタカナのヨ-のマークをつけた紫電横須賀海軍航空隊配備され終戦まで京浜地区防空にあたる。 第三航空艦隊では、343空配備されていた機体を除く全ての紫電改紫電集め彩雲百式司偵と共に爆装することで、米護衛戦闘機対空砲火高速突破による高い命中率命中率25パーセント)を期待している。もっとも紫電改生産数が月70機を越えことはなく、計画中止となった1945年昭和20年10月16日米軍引き渡すための空輸の際、米軍ハイオクガソリン用いて全速で飛ぶ紫電改3機(志賀淑雄少佐田中利男上飛曹、小野正盛上飛曹が示し合わせて実行武装撤去銃弾搭載のため軽量)に、実弾装備した監視役の6機のF4U置き去りにされそうになったという。 紫電改戦った搭乗員からの評価高く三上光雄は「軽戦に対する重戦でありながら零戦塁を摩する」「零戦は軽戦、紫電改は重戦と言うべく十分使えた」、磯崎千利松場秋夫は「零戦同様に使えた」と評し磯崎最大の欠点として高速ダイブ中の戻り対す強度不足を挙げている。笠井智一佐藤精一郎は失速その他に注意しながらも紫電改戦えたことを最高の誇りとし、20ミリ4銃の威力と包路線フラップ効用評価した岩下邦雄や笠井智一F6F互角に戦え素晴らし機体として歓迎した笠井によれば紫電改にとって最も手強かった米軍戦闘機F6Fで、紫電紫電改には雲泥の差があり、紫電改配備後の訓練搭乗機紫電指定されると、全員気落ちしたという。本田稔は、当時若年搭乗員12編隊着陸一様にできた操縦性、腕比利用による高低両用操縦性評価し戦後三菱テストパイロットとしての外遊資料から大戦末期における双璧紫電改とP51であると述べている。紫電改テストパイロットだった志賀淑雄紫電改のように何にでも食いついていけるおてんば娘で使える機体だと思ったという。当機での実戦経験はないが教育に関わった坂井三郎は、航続力がない点からみれば九六艦戦時代逆戻りした感があるが、極めて斬新な設計空戦フラップ)が施され優秀な戦闘機評していた。しかし、晩年には「制空戦闘機とも局地戦闘機ともいえない中途半端な戦闘機」と評して批判的になった。坂井は、343空教官として着任した際に『局地戦闘機 紫電一一型空中使用標準参考』(一一型紫電改間違えている)を制作したとして、空戦フラップを「旋回性能良くなるが、作動の面で信頼性欠けた」「舵が効きすぎた時の修正難しい」など批判するが、「水銀表面酸化して導通悪くなり、油圧機が誤作動する(水銀常温酸化しない)」などの非科学的内容含んでいる。 米技術雑誌ポピュラーメカニクス』では、米空軍試験紫電改マグネトーを米製に替え100オクタン燃料使って空軍飛行した結果速力はどの米戦闘機にも劣らず機銃威力は一番強いと紹介された。ピエール・クロステルマン著書空戦」では、紫電改が高度6,000mでP51マスタング44年型と同程度スピード発揮したことからマスタング44年型のカタログスペック基準とした最高速度時速680km説を採用しており、当時連合軍空軍関係者はその程度速度認識していた。また、川西航空機設計課長だった菊原静男によれば1951年昭和26年)に来日した米空軍将校団中にアメリカで紫電改テストした中佐がおり「ライトフィールドで紫電改乗って米空軍戦闘機空戦演習やってみた。どの米戦闘機紫電改勝てなかった。ともかくこの飛行機は、戦場ではうるさい存在であった」と評したという。 スミソニアン博物館展示されている紫電改説明文に「太平洋で使われ万能戦闘機のひとつである」とされながらも「B-29対す有効な邀撃機としては高高度性能が不十分であったと書かれているように、局地戦闘機としては高高度性能優れているとは言えなかった。これは日本機に共通する欠点で、排気タービン過給器(ターボチャージャー)や二段機械過給機スーパーチャージャー)を実用化できなかったためである。なお、この紫電改高高度性能不足の対策として、一時生産中止されそうになった雷電生産促進なされている。主力戦闘機として大生計画立てられたものの、実戦配備B-29による本土爆撃本格化した1944年昭和19年)末であったこともあって紫電改生産数は約400機に留まり、「大東亜決戦機」として3,000機以上生産され文字通り大戦末期における陸軍主力戦闘機となった四式戦とは対照的評価されることがある近藤芳夫疾風開発者)は「疾風一撃離脱キ44鐘馗)が原点紫電改空中格闘戦に拘っていた」と述べている。 『The Illustrated Directory of Fighters』(Mike Spick著)P.218によると、N1K2-J(紫電改)は高度19,030フィート(5,800 m)において最高速度416マイル(669 km/h)、海面高度において最高速度358マイル(576 km/h)、上昇率は高度20,014フィート(6,100 m)まで6分6秒との性能記載されている。これらの数値連合軍による鹵獲機での試験データに基づく数値注釈触れられているが、元となった試験情報出典など詳細不明である。英国ブランドフォード社の『原色航空機百科』(K.マンソン著)では「太平洋戦線出現した日本機中、最もすばらしいもののひとつであった」と高く評価されている。

※この「沖縄戦以降」の解説は、「紫電改」の解説の一部です。
「沖縄戦以降」を含む「紫電改」の記事については、「紫電改」の概要を参照ください。

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