沖縄戦メモリアル(平和の礎)構想をめぐる問題
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「上原正稔」の記事における「沖縄戦メモリアル(平和の礎)構想をめぐる問題」の解説
大田が知事時代に沖縄戦跡国定公園内に建立した、平和の礎は大田の発案とされている。しかし、これも上原が前述の1フィート運動よりもっといい住民運動をしたいと考えたアイディアである。上原はベトナム戦争で戦没した兵士を弔うために、ワシントンD.C.に所在するベトナム戦争戦没者慰霊碑の存在を知っていたが、これには亡くなったベトナム人の名前が全く刻まれていなかった。これをきっかけとして米軍海軍歴史家のロジャー・ピノー、川平朝申、照屋善彦、米須清一等とともに、敵味方関係なく全ての沖縄戦の死者を祈念する「沖縄戦メモリアル構想」を1990年6月22日、記者会見で発表し、沖縄の地元紙にも掲載された。翌年、ピノーは亡くなった。 沖縄戦メモリアルはどの場所でも構わないが建立するというプランになっており、当時、最初に手を挙げた具志頭村に建立する方向だった。県に御伺いを立てる意味で具志頭村の村長等が大田に面会した際、最初は村長を外せと大田は指令したが、上原が断り村長も同席した。面会者の話に対して耳を貸そうとせずに、「私がやるから、あなた方では出来ないから蝋人形館でもやったらと?」と短時間で離席し、後に具志頭村のアイディアを盗んだとされている。面談した上原と具志頭村関係者は憤慨して、同年7月16日に記者会見にて具志頭村に「沖縄戦メモリアル」を設立することを発表した。 後にこの事を、上原が1991年10月29日、沖縄県議会平成三年 第五回九月議会に陳情し、文教委員会にて「知事が自分のアイディアを剽窃してるので止めさせて欲しい」と証言し、証言の最後に当時:文教委員長だった、現:衆議院議員の西銘恒三郎に「最後に言いたいことは?」と問われ、「あいつは人間のクズで、知事でなく辱である」と証言した事で大田の恨みを買った。 翌年、1992年9月13日にハーバービューホテル2階小宴会場にて催された「沖縄占領シンポジウム」に参加していた上原に対し、泥酔状態であった大田が暴行を働く事案が起きた。大田が暴行を働いた現場にはロバート・フィアリー元民政官やクリステンセンアメリカ合衆国総領事、沖縄タイムスの大山哲(後の元常務取締役)、琉球新報の山根安昇(後の元副社長)等の記者が居合わせたが、翌日の紙面には全く掲載されなかった。後日、上原は沖縄県警に告訴したが、現場に居合わせた者が証言しようとせず、その結果不受理となった。その後、大田の意を汲んだ知事公室長の高山朝光が、上原の暴行現場にも居合わせた大山に電話し、紙面で連載していた「続沖縄戦トップシークレット」の連載を終わらせろと抗議した結果、タイムス社の意向として連載が中断した。
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