沖縄戦メモリアル構想をめぐる問題とは? わかりやすく解説

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沖縄戦メモリアル(平和の礎)構想をめぐる問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 04:04 UTC 版)

上原正稔」の記事における「沖縄戦メモリアル平和の礎構想をめぐる問題」の解説

大田知事時代沖縄戦跡国定公園内に建立した平和の礎大田発案とされている。しかし、これも上原前述1フィート運動よりもっとい住民運動をしたいと考えたアイディアである。上原ベトナム戦争戦没した兵士弔うために、ワシントンD.C.所在するベトナム戦争戦没者慰霊碑存在知っていたが、これには亡くなったベトナム人の名前が全く刻まれていなかった。これをきっかけとして米軍海軍歴史家のロジャー・ピノー、川平朝申照屋善彦、米須清一とともに敵味方関係なく全ての沖縄戦死者祈念する沖縄戦メモリアル構想」を1990年6月22日記者会見発表し沖縄地元紙にも掲載された。翌年ピノー亡くなった沖縄戦メモリアルはどの場所でも構わない建立するというプランになっており、当時最初に手を挙げた具志頭村建立する方向だった。県に御伺いを立てる意味で具志頭村村長等が大田面会した際、最初村長外せ大田指令したが、上原断り村長同席した面会者の話に対して耳を貸そうとせずに、「私がやるから、あなた方では出来ないから蝋人形館でもやったらと?」と短時間離席し、後に具志頭村アイディア盗んだとされている。面談した上原具志頭村関係者憤慨して同年7月16日記者会見にて具志頭村に「沖縄戦メモリアル」を設立することを発表した。 後にこの事を、上原1991年10月29日沖縄県議会平成三年 第五回九月議会陳情し文教委員会にて「知事自分アイディア剽窃してるので止めさせて欲しい」と証言し証言最後に当時文教委員長だった、現:衆議院議員西銘恒三郎に「最後に言いたいことは?」と問われ、「あいつは人間クズで、知事でなく辱である」と証言した事で大田恨みを買った翌年1992年9月13日にハーバービューホテル2階小宴会場にて催された「沖縄占領シンポジウム」に参加していた上原対し泥酔状態であった大田暴行を働く事案起きた大田暴行働いた現場にはロバート・フィアリー民政官やクリステンセンアメリカ合衆国総領事沖縄タイムス大山哲(後の元常取締役)、琉球新報山根安昇(後の元副社長)等の記者居合わせたが、翌日紙面には全く掲載されなかった。後日上原沖縄県警告訴したが、現場居合わせた者が証言しようとせず、その結果不受理となったその後大田の意を汲んだ知事公室長の高山朝光が、上原暴行現場にも居合わせた大山電話し紙面連載していた「続沖縄戦トップシークレット」の連載を終わらせろと抗議した結果タイムス社の意向として連載中断した

※この「沖縄戦メモリアル(平和の礎)構想をめぐる問題」の解説は、「上原正稔」の解説の一部です。
「沖縄戦メモリアル(平和の礎)構想をめぐる問題」を含む「上原正稔」の記事については、「上原正稔」の概要を参照ください。

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