沖縄戦の作戦参謀として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 15:30 UTC 版)
沖縄戦では第32軍参謀として司令官牛島満中将をよく補佐し、持久戦術を提案した。当初は航空支援下での水際撃滅戦を主眼としていたが、大本営の誤った敵情判断による防衛戦略の見直しにより、沖縄防衛の要であった第9師団を台湾に引き抜かれ、約束されていた補充師団も到着しなかった。そのため、本土決戦を引き延ばす時間稼ぎの捨石となるようにとの大本営の要請に対し、持久戦への方針転換がもっとも堅実な作戦であると考えた。八原はただ兵力不足のため持久戦を提案したのではなく、地道な持久戦で長期間アメリカ側に出血を強いることにより、アメリカ世論を厭戦気分へ動かし、日本の立場を有利にする考えがあったという。 精鋭であった第9師団の台湾移転により作戦の見直しを迫られた八原は、航空部隊の支援を受けての水際撃滅戦という(アメリカ軍との圧倒的な火力差を無視した)大本営の非現実的な作戦構想を斥け、過去に読んだ日本の柔道家がアメリカの拳闘家と異種格闘技戦を戦い、柔道家が寝技で拳闘家を下したという一節を思い出し、圧倒的な火力を誇るアメリカ軍相手に正攻法では勝てない為、堅牢な洞窟陣地を構築してそこに籠城し、徹底した戦略持久を主眼とする大転換接近戦に持ち込む「寝技戦法」しか対抗手段はないと考え、第32軍に徹底した陣地構築を命じた。しかし、これは単なる思い付きではなく、八原は日本軍参謀の多くが有した悪癖である自軍の戦力に対する過大評価を一切せず、第32軍の2.5個師団に対し、進攻してくるアメリカ軍は6~10個師団(実際は8個師団弱)と正確に予想、一個師団当りの火力の差、艦砲射撃や空爆も含めると戦力差は30倍以上になると分析しており、この戦力差を補うためには、不沈艦沖縄の自然力を十二分に発揮する他はないと考えたからである 。 沖縄の地盤は固い珊瑚礁でできているところも多く、掘削により艦砲射撃や大型爆弾に耐えられる陣地を構築することができた。八原の指揮により、地形に沿った洞窟陣地や砲床や塹壕が次々と作られ、それらは地下トンネルで接続されまた巧妙に擬装された。山腹には前面の他に後方斜面にも陣地が作られ(反斜面陣地) (reverse slope defense)アメリカ軍の激しい砲爆撃に耐えられるような巧みな構造となっていた。日本軍はその陣地を活用し、まずアメリカ軍部隊を日本軍陣地の直前まで誘導すると、重機関銃、軽機関銃等で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分断した。次いで敵戦車を、対戦車砲、山砲、野砲、地雷、歩兵の肉弾戦によって撃破し、敵の増援部隊を重榴弾砲、野戦重砲・重砲の砲撃により叩いた。 アメリカ軍は日本軍の組織的抵抗がないままに嘉手納へ無血上陸したものの、その後は日本軍の持久戦略によって大きな犠牲を強いられることとなる。八原戦略は地味だが非常に効果的であった。しかし大本営からの攻撃の催促と長勇参謀長の直情的な思考により、八原の反対にもかかわらずアメリカ軍が上陸して約1週間後には持久戦から無謀な夜間突撃に切換えられた。八原の想定どおり前線の兵力は大損害を被り、砲兵部隊の弾薬は大半を使い果たしてしまった。その後は牛島中将は八原の戦略を全面的に採用し、徹底した防衛戦により嘉数高地の防衛戦、シュガーローフの戦い、首里城攻防戦では、苦境のなかで善戦した。アメリカのマスコミはアメリカ軍のあまりにも大きな損害と進撃スピードの遅さに、アメリカ軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将を激しくバッシングしている。 しかし日本軍の損耗も激しく、八原はアメリカ軍をより長く沖縄に足止めする為、全軍を沖縄南端部まで撤退させ防衛戦の継続を提案、牛島も八原の戦略を採用し、雨天を利用して摩文仁高地に撤退した。その後も持久戦によりアメリカの上陸軍に多大な死傷者を出させたのみならず、最高司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将を戦死させるなどアメリカ軍に多大な損害を与えて、さらに1か月間アメリカ軍を足止めしている。このバックナー司令官の戦死は、アメリカ軍史上、司令官クラス初の戦死者であり、アメリカ国内世論が騒然となった。 八原は、もし第九師団が引き抜かれず、自分が想定したような徹底した持久戦をおこなっておれば、終戦の日まで首里で持ちこたえることが可能で牛島司令官も死なずに済んだのではないかと回想している。 八原自身は、自分も在住したアメリカをよく理解した上で作戦計画を立てた。そのため八原を評価したのは敵手であるアメリカ軍であった。アメリカ軍は八原の作戦計画を高く評価している。また、作家山本七平は、敗戦後の捕虜収容所でアメリカ軍将兵が一兵士に至るまで「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった」「あれを徹底的にやられたら参る所だった」と評価していた、と書き残している。また、アメリカ陸軍戦史「最後の戦い」でも、「沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった」と述べられている。 持久戦を伴った沖縄戦によって、多くの県民が犠牲になった。特に、日本軍が戦闘力の多くを失った後での首里放棄・南部(摩文仁高地)撤退による持久作戦継続は、「寸地残る限り後退善闘すべし」という大本営の方針を墨守したものであり、アメリカ軍からは軍事的視点で「見事に首里を撤退し、時をうつさず南部に新たな戦線を確立した」「アメリカ軍が全力をあげて集中攻撃を加えても、戦闘を終わらすまでに三週間以上を要したのである。」と高く評価されたものの、沖縄県民の生命保護の重要性を説く島田叡沖縄県知事や麾下第62師団上野参謀長からの死地を首里に求める首里放棄反対意見を退け、結果として軍の勝利を信じ南部に避難していた沖縄県民の多大な被害を引き起こした点で、今日でも根強い批判がある。八原自身も、自らの作戦によって生じた沖縄県の住民への犠牲に対する責任を強く感じていた。八原は戦後に沖縄を訪れていない。
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