沖縄戦開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 20:51 UTC 版)
3月17日、連合艦隊はGF電令作第564号にて大和を含めた第一遊撃部隊に出撃準備を命じ、 「航空攻撃有利なる場合、1YBは特令により出撃し敵攻略部隊を撃滅す。本作戦を天一号作戦と呼称す」 を告げた。3月19日、米軍機動部隊艦上機による呉軍港空襲で、呉地区では軽巡大淀など在泊艦艇が被害を受けた。 3月末、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は日本本土への上陸に向けた最終段階として沖縄諸島方面への進攻作戦を開始し、大艦隊が沖縄本島沖に集結した。これに対して日本軍は防衛のため第六航空軍(日本陸軍航空部隊)を連合艦隊司令長官の指揮下に入れた。つづいて3月25日に天号作戦警戒を発令した。翌3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸を開始、日本軍は天号作戦を発動した。特攻作戦である菊水作戦に呼応する形で、海軍艦艇の東シナ海への出撃を検討する。ただし、菊水一号作戦は航空戦である。 同26日、第二艦隊の稼働艦艇全力(大和、第二水雷戦隊、第三十一戦隊、第十一水雷戦隊)に対し連合艦隊はGF電令作第581号・583号にて、佐世保への回航と同港前進待機が指示される。第二艦隊(第一遊撃部隊)を佐世保に進出させ、敵機動部隊を誘致するとともに、航空作戦が有利になれば「攻略船団撃滅を目指す作戦を容易にする」という意図があった。連合艦隊作戦参謀である三上作夫中佐は「佐世保に大和がいることでアメリカ軍の脅威となり、アメリカ軍機動部隊が大和を目標として北上して来る。そこを基地航空隊が叩く作戦」と証言している。これに対し第五航空艦隊長官である宇垣纏中将は「小細工が通用するはずもなく笑止千万。内海待機が適当」と残している。第一遊撃部隊では、対潜・対空・回避運動の観点から、連合艦隊の作戦案に容易に賛成しなかった。呉鎮守府は呉防備戦隊に対し、隷下部隊をもって豊後水道を通過する第一遊撃部隊の対潜直衛及び同海域の前路哨戒・対潜哨戒をおこなうよう命じた。佐伯空の哨戒機、佐伯防第二掃蕩隊、第三特別掃蕩隊(第五十九号、第六十五号海防艦、男鹿、目斗)、第一護衛艦隊の海防艦2隻(御蔵、第三十三号)が出撃して哨戒と掃蕩を開始した。 3月27日深夜から3月28日未明にかけて、B-29は下関海峡に機雷を投下した。同28日午前9時30分、大和で各駆逐戦隊指揮官や艦長が作戦打ち合わせを行う。同28日、連合艦隊はGF電令作第589号で佐世保回航兵力から「第二水雷戦隊、第三十一戦隊の兵力から一部欠」と改めた。豊後水道は前日の27日に呉防備戦隊や佐伯航空隊などによる航路確保のための掃討作戦がおこなわれ、航行が可能であった。午前10時30分頃、対潜哨戒機が豊後水道で敵潜水艦を発見、海防艦御蔵等が共同で撃沈した。この潜水艦はトリガー (USS Trigger, SS-237) であった。 同28日午後5時30分、第一遊撃部隊は呉軍港を出港し佐世保へ向った。呉出港時、全ての在艦艦艇が第二艦隊に対して汽笛と「総員帽振れ」で見送ったという。佐世保までの航路は、アメリカ軍機動部隊の誘引も考慮して豊後水道経由が選択された。下関海峡は水深10mのため大和が座礁する可能性があり、またアメリカ軍の機雷に触れる可能性も考慮して選択されなかった。しかし出航と同じ頃、アメリカ軍機動部隊が南九州に接近し航空攻撃を加えてきた。この報告を受けて連合艦隊の命令により佐世保回航は延期とされ(GF電令作第590号)、周防灘で待機となる。豊後水道南部付近では、米艦載機約70が呉防備戦隊の掃蕩隊を襲撃し、御蔵と第33号海防艦および特設艦艇2隻が沈没、8隻が損傷する大損害を受けた。30日、B-29が再び下関海峡に機雷を敷設した。また呉軍港と広島湾も機雷で埋め尽くされ、呉に帰還することも困難となった。第二艦隊は宙に浮いた形となった。 3月29日、榛名の航海長を勤めていた茂木史朗中佐が新任航海長として大和に着任した。前任者の津田弘明大佐は普通半日で終わる引継ぎを一週間かけて行った。この点では大和艦長の有賀幸作大佐、矢矧艦長の原為一大佐も1944年12月の着任で、その後も燃料不足やドック入りのため満足な訓練ができず乗艦の操艦に熟練していなかった。午後5時26分、大和以下の艦隊とともに移動中の駆逐艦響が周防灘で触雷し脱落、朝霜に曳航されて呉に向かう。その後、響が自力航行可能となったため、朝霜は曳航を中止して第二艦隊に合流した。 4月1日、連合軍は沖縄本島への上陸を開始した。これに対する日本軍の菊水作戦の発動は4月6日と決定された。現地作戦指導のため、連合艦隊の参謀(草鹿〈参謀長〉・淵田美津雄〈航空〉・三上〈作戦〉)は鹿屋航空基地に出張した。沖縄の日本陸軍や海軍陸戦隊は持久作戦を主張、内地の大本営や連合艦隊司令部は航空特攻や海上特攻を含めた総攻撃を主張し、日本軍の作戦方針は統一されていなかった。4月2日、昭和天皇は参謀総長である梅津美治郎大将に対し沖縄方面戦況を憂慮、現地軍が攻勢に出ない理由を尋ね、逆上陸(敵の上陸地点に、海上より強襲揚陸を敢行すること)を提案する。大本営陸軍部作戦部長宮崎周一陸軍中将は、この経緯を以下のように記録している。 四月四日 五日 総長 上奏ノ際ノ御下問一、沖縄作戦ニ関シテハ多大ノ御宸念ニシテ「此戦カ不利ナレハ陸海軍ハ国民ノ信頼ヲ失ヒ今後ノ戦局憂フヘキモノアリ 現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ 兵力足ラサレハ逆上陸モヤッテドウカ」一、御期待大ナル趣旨、御宸念ノ報 天号関係各部隊ニ発電ス 「ビルマ」作戦ニ関シテハ大体御安神ノ模様一、総長ハ陛下ノ御心ヲ、吾人ハ総長ノ心ヲ心トシテ御奉公スルコトカ第一ナリ 此点五十ノ齢ヲ越エテ尚且大ニ反省ヲ要スルヲ自覚ス 一、球ノ行動 敵軍上陸開始以来甚シク消極自己生存ヲ第一義トスルヤノ疑アリ 依テ若キ連中モ此点ヲ考慮シ二月頃以来論議アリ 三日午前之カ指導ニ関シ発電案ヲ齎ス予ハ不同意ヲ表ス 午後総長ヨリ此点ニ関シ所要ノ指導ヲ要ストノ意見アリ依テ夕刻之カ意見ヲ発電準備セシ処其機ヲ失シ保留ス 翌四日朝GBノ瀬島参謀来リ 聯合艦隊ノ沖縄周辺ニ対スル攻撃ノ企図ヲ通達ス 依テ昨夜来ノ経緯モアリ 此旨ヲ述ヘ且球ハ此航空攻撃ト連携シ勉メテ積極的行動ニ出スヘキ次長電ヲ発シタル所 夜半台ハ作命ヲ以テ攻撃ヲ令シ之ト前後シ球ハ自発的ニ七日夜全力ヲ挙ケテ攻撃ノ決意ヲ打電シ来ル 然ル処更ニ之ヲ躊躇スルノ報アリ 総長モ此点憂慮セシ処 五日夕ニ至リ更ニ台ハ球ニグズグズ云ハズ総攻撃ヲ命シ 決行ヲ八日夜ト命ス 尚之ヨリ先GFハ右ノ球ノ総攻撃ノ決意ヲ知リ之ヲ徹底スル為第二艦隊ニ対シ沖縄突撃ヲ命シ 且敵機動部隊内艦艇次テ運送船ノ攻撃ヲ令ス 此間短時間ニ数次ノ経緯アリ 余リ香シカラサル事モ在リ 長中将モ真ニ攻撃精神旺盛ナル軍人トハ申シ難シ、余リ口ニ強キハ実ハ必スシモ然ラストノ原理ヲ実証ス(以下略) 一方、第二水雷戦隊司令部はアメリカ軍の優勢を認めた上で、3つの選択肢を検討した。 航空作戦、地上作戦の展開に関わらず沖縄に突入し、最後の海戦を実施する。目的地到達前に壊滅必至。 好機到来迄極力日本海朝鮮南部方面に避退温存す。 陸揚可能兵器弾薬人員を揚陸、陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とす。 第二水雷戦隊は第3案を「最も有利なる案」として4月3日、第二艦隊司令部に意見具申する。第二艦隊司令部は賛同の上で連合艦隊司令部に伝達した。ところが伊藤は連合艦隊が航空部隊に総攻撃の準備命令が出されたことを知って意見具申を取りやめた。
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