茂木史朗とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 茂木史朗の意味・解説 

茂木史朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 08:08 UTC 版)


茂木 史朗
生誕 (1905-11-01) 1905年11月1日
愛媛県松山市河原町
死没 (1945-04-07) 1945年4月7日(39歳没)
九州 坊ノ岬沖
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1925-1945
最終階級 海軍大佐
勲章 旭日中綬章
出身校 海軍兵学校53期
配偶者 冨美子
子女 洋一(長男)、汀子(長女)、洵子(次女)、涇子(三女)
親族 義一郎(長兄)、正次郎(次兄、版画家)、歌世(長姉)、誠造(三兄)、伍朗(末弟、医師)、郁子(末妹)
墓所 愛媛県松山市 桑原寺
テンプレートを表示

茂木 史朗(しげき しろう、1905年〈明治38年〉11月1日 - 1945年〈昭和20年〉4月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。戦艦「大和」 航海長。愛媛県出身。海軍兵学校53期。重巡「鳥海」や戦艦「榛名」などで航海長を歴任し、巧みな操艦技術で知られた。沖縄水上特攻作戦直前に戦艦「大和」の航海長に着任し、出撃前夜には部下と盃を交わして士気を鼓舞したと伝えられている。最期は艦橋で主羅針儀に身を括り、艦と運命を共にした。

経歴

1905年(明治38年)、松山市河原町に 父 木和村利平、母 ツネヨの四男として生まれた。版画家の木和村正次郎(創爾郎)は次兄である。幼くして両親を失い、1914年(大正3年)3月24日に母 ツネヨの実弟である茂木氏男の養子となる。

松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)4年修了で1922年(大正11年)年8月26日海軍兵学校(53期)に進み、1925年(大正14年)7月14日に同校卒業。同期には、記念艦「三笠」の艦長を務めた福地誠夫、革命児と呼ばれた藤井斉がいる。卒業後は潜水艦や上海陸戦隊に配属された。

海軍兵学校53期級会員任官式。前列左から2人目に藤井斉、3列目左から6人目に茂木史朗

1932年(昭和7年)第6期航海学生を卒業してからは航海畑一筋で、「伊号第56潜水艦」、「伊号第68潜水艦」、給油艦「知床」、軽巡洋艦球磨」、駆逐艦」、軽巡洋艦神通」などで航海長を歴任した。

第6期航海学生卒業記念写真。前から2列目、右から2人目に茂木史朗大尉(当時)

また、1938年(昭和13年)12月から海軍兵学校教官・監事を務め、航海科教官として67期から71期の生徒たちを指導した。海兵70期には、後に初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」を指揮する事になる関 行男中佐、海兵71期には臼淵 磐少佐がいる。

海軍兵学校第68期卒業記念写真(愛媛県人)前から3列目、左から3人目に関行男(当時学生)。前列左から2番目に茂木史朗少佐(当時)。第68期の卒業生とともに同郷人として関行男が写っている。

太平洋戦争開戦は、重巡洋艦鳥海」航海長として迎え、マレー作戦蘭印作戦に参加。1942年(昭和17年)7月、鳥海はニューギニア・ソロモン方面を担当する第八艦隊の旗艦となり、第一次ソロモン沖海戦ガダルカナル島への艦砲射撃第三次ソロモン沖海戦にも参加している。

1943年(昭和18年)6月には 戦艦「榛名」航海長となり、翌年のマリアナ沖海戦レイテ沖海戦に参加した。

開戦以来その大半を前線で過ごし、数々の海戦に臨みながらも巧みな操艦で乗艦を沈めることはなかった。

1945年(昭和20年)2月15日、戦艦「大和」航海長兼分隊長に発令され、同月19日に着任する。しかし、着任してわずか2か月にも満たない4月6日に天一号作戦が発令され、山口県の三田尻沖(周防灘、徳山湾湾口の西方約14.8キロメートルにある。南東方に開いた港。湾内の広さ約2キロメートル)[1]から沖縄へ向けて出撃。翌4月7日の坊ノ岬沖海戦にて艦と運命を共にした。享年40歳。

最期

茂木は、坊ノ岬沖海戦において戦艦大和の第一艦橋にとどまり、最後まで職務を続けたと複数の証言に記録されている。戦況が悪化し艦が大きく傾くなか、「航海長、艦を北向きにもっていけ」と命じられ、茂木は「艦長、もう艦は動きません」と応じたとされる。艦橋では「総員上甲板」の命令が伝えられ退去が促されたが、花田掌航海長は「さあ、急がないと間に合わないぞ」と周りに声をかけ自らも双眼鏡の架台に体を固縛していたとされ、茂木は無言のまま自らの脚をジャイロコンパス(転輪羅針儀)に晒木綿の白布で固縛したと伝えられている。森下信衞参謀長は茂木の肩を揺さぶって「貴様何をしてる。馬鹿な事はやめて早く外へ出ろ」と促したが、茂木は応じなかった。航海士・山森直清中尉(海兵73期)は、茂木を「有賀艦長を小型にしたような武将型で、落ち着いた人だった。体を縛っても悲壮な感じはなく、立派だと思った」と回想している。浅田満夫や吉田満、能村次郎ら複数の回想・戦記にも、艦橋最期の状況として茂木と花田が毅然とした態度でその場に残り、大和と運命を共にした姿が記録されている。[2][3][4][5][6][7][8][9]

逸話

・長女の汀子さんは呉で開催された大和追悼式(2022年4月7日)に参列し、「立派な追悼式でした。自宅から出ていく父を、窓からさようならと言って手を振って見送ったのが最後でした。映画にも連れて行ってくれた優しい父。最後に見た映画は忠臣蔵でした」と振り返った。[10]

1939年(昭和14年)頃の家族写真。左から茂木史朗少佐(当時)、洋一(長男)、汀子(長女)、冨美子(妻)

・茂木は、重巡「鳥海」や戦艦「榛名」での航海長を経て、昭和19年2月に戦艦「大和」へ着任した。操艦の技術は海軍でも高く評価されていたが「大和」は操艦法が違う為、前任の津田弘明大佐は有賀艦長に申し出て、通常半日で終わる引き継ぎを「一週間ほどかけて実地にみっちりやることにした」と証言している。[11]

・茂木が航海長を務めた期間は短く、燃料不足から操艦訓練の機会もほとんどなかったため、回避運動について「十分ではなかったのではないか」とする評価がある。しかし当時の航海士・山森直清中尉は「森下参謀長は回避運動の指示が非常に優れていたが、あの状況では誰が操艦しても魚雷を回避し沖縄へ突入することはできなかっただろう」と述懐している。[12]

・出撃前夜、兵員居住区では冷酒の杯が交わされ、茂木が上着を脱いで腕をまくり、次々に挑む下士官と腕相撲をして皆を圧倒したという。「どうだお前たち、おれに命をくれるか」と問うと、「どこまでも行きます」と声が上がり、乗員たちが神輿のように航海長を担ぎ上げて回ったとの回想が残る。[13]

海軍兵学校67期卒業記念(第22分隊)。前列左から4人目に茂木史朗大尉(当時)

・若き日の茂木は、呉の小さな店や青島のダンスホールで同期とともにダンスを楽しんだという思い出話もある。ダンスに長けた彼は、仲間と目配せをしながらビールを酌み交わし、時に「藤山一郎がメガホン片手に歌う」日米ダンスホールで夜更けまで踊り明かしたという。[14]

同期の鋤柄健吾大尉(当時)と明治神宮での写真(左が鋤柄健吾大尉(当時)、右が茂木史朗大尉(当時))

・五十三期の仲間たちに向けて茂木自らが作った歌「五十三期」の楽譜がクラス会誌に残されており、戦後仲間たちが慰霊祭を開催し「茂木君、君のこの名作を六十年も眠らして置いてご免なさい」と語りかけて合唱を捧げた。

  五十三期 茂木史朗

一、我が神州の誇とて 玲瓏高き富嶽あり 我が海軍の花として

  静美を兼ねる江田の島 彼ぞ我等が理想の山 此ぞ我等が揺籃の地

二、華府条約の五の三を 我等が腕と意気をもて 補ひ奉り鴻恩の 

  万が一をも報ひんと 六十の士が手をとりて 生まれ出たる五十三期

三、三年が昼夜相共に 赤き煉瓦に起き臥しぬ 古鷹山に登りては

  浩然覇気を養ひし 江田湾外に漕ぎ出ては 鉄の腕(かいな)を鍛へてし

四、学びの庭を立出でて 第二の母校磐手艦 甲板洗ふ冬の朝

  石炭運ぶ夏の午 檣(マスト)登りや天測に 我等は共に鍛はれぬ

五、頃は落葉の秋の未 遠く祖国を後になし 我が同胞(はらから)が活躍の

  南支南洋歴(へ)巡りて 羊群遊ぶ白濠や 新西蘭訪れぬ

六、かくて四月の花の頃 懐かし故国に帰港せば 三年半の春秋を

  共に学びし級友も 互いに握手励ましつ 各艦船に分かれけり

七、よしや其身は東西に 相離るとも我々の 心は常に相寄りて

  互に扶け誡しめつ 富士の高きを理想とし 勇み進めよ五十三期

[15]

・ある回想録では、茂木が松山中学時代、河本広中(海兵53期)とともに学び、茂木が首席、河本が次席であったことが記されている。執筆者は、後に茂木が「大和」の航海長として最期を遂げたことに触れ、「羅針儀に体を括り艦と共に沈んでいったことはあまりにも有名である」と述べている。また、茂木と自身の母が松山藩主久松家の一族である縁にも触れ、慰霊碑を建立した長女である汀子氏の行動を称賛している。[16]

茂木家墓所。右側に茂木史朗慰霊碑。左側は、木和村家墓所。
家族写真1942年頃。(前列左から冨美子(妻)、洵子(次女)、貞子(正次郎妻)、後列左から伍朗(末弟)、史朗、正次郎(次兄))

年譜

  • 1905年(明治38年) 松山市河原町にて生まれる
  • 1914年(大正3年) 茂木氏男の養子となる
  • 1922年(大正11年) 松山中学校4年修了で、海軍兵学校に入校
  • 1925年(大正14年)7月14日 海軍兵学校卒業。
  • 1926年(大正15年)12月1日 海軍少尉
  • 1928年(昭和3年)12月10日 海軍中尉
  • 1931年(昭和6年)12月1日 海軍大尉
    • 12月10日 結婚願い提出、12月21日認許
  • 1932年(昭和7年)4月24日 義父の看護により帰郷
    • 12月1日 伊号第56潜水艦 航海長就任
  • 1934年(昭和9年)11月1日 伊号第68潜水艦 航海長就任
  • 1935年(昭和10年)10月21日 給油艦「知床」 航海長就任
  • 1937年(昭和12年)6月21日 軽巡洋艦球麿」 航海長就任
  • 1938年(昭和13年)6月1日 一等駆逐艦吹雪型」航海長就任
    • 11月15日 海軍少佐
    • 12月15日 海軍兵学校教官・監事
  • 1940年(昭和15年)10月15日 軽巡洋艦神通」航海長就任
  • 1941年(昭和16年)9月10日 重巡洋艦鳥海」航海長就任
  • 1943年(昭和18年)6月1日 海軍中佐
  • 1945年(昭和20年)2月15日 戦艦大和」航海長就任
    • 4月7日 九州坊ノ岬沖にて戦死(享年40歳)
    • 4月7日 海軍大佐

茂木史朗を演じた人物

脚注

  1. ^ 原 勝洋『真相・戦艦大和の最期』125頁
  2. ^ 浅田滿夫 『戦艦「大和」と私 〜 一予備士官の回想 〜』
  3. ^ 能村次郎『慟哭の海』 87頁、109頁
  4. ^ 生出 寿 『戦艦「大和」最後の艦長』334頁-335頁、343頁-344頁(光人社NF文庫)
  5. ^ 吉田満戦艦大和の最期
  6. ^ 吉田俊雄『戦艦大和その生と死』234頁
  7. ^ シンポジウム 『大和におもう』朝日新聞 (1997(平成9年)3月5日) 
  8. ^ 『後昆に伝えん 〜戦艦大艦長森下信衞少将の生涯〜』58 - 59頁
  9. ^ 辺見じゅん『YAMATO 』「忘れざる大和、沖縄の海」- 石田 恒夫(大和会会長) - 142頁
  10. ^ 産経新聞ニュース(2022年5月8日)
  11. ^ 生出 寿 『戦艦「大和」最後の艦長』289頁(光人社NF文庫)
  12. ^ 生出 寿 『戦艦「大和」最後の艦長』345頁-346頁(光人社NF文庫)
  13. ^ シンポジウム 『大和におもう』朝日新聞 (1997(平成9年)3月5日) 
  14. ^ 鋤柄 健吾 『茂木兄を偲びて』第53期級会会誌(第6号)昭和46年4月
  15. ^ 福地 誠夫 『茂木大和航海長に捧げた「五十三期の歌」六十年目の合唱』(「水交」 No.416(昭和64年1・2月))
  16. ^ 高木 敬吾(海兵74期) 『江鷹(海軍兵学校74期会会報) 166号』 平成5年6月1日



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  茂木史朗のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「茂木史朗」の関連用語

茂木史朗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



茂木史朗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの茂木史朗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS