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茂木史朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 12:46 UTC 版)

茂木 史朗
生誕 (1905-11-01) 1905年11月1日
死没 (1945-04-07) 1945年4月7日(39歳没)
九州 坊ノ岬沖
所属組織  大日本帝国海軍
最終階級 海軍大佐
勲章 旭日中綬章
出身校 海軍兵学校53期
配偶者 冨美子
子女 洋一(長男)、汀子(長女)、洵子(次女)、涇子(三女)
墓所 愛媛県松山市 桑原寺
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茂木 史朗(しげき しろう、1905年明治38年〉11月1日 - 1945年昭和20年〉4月7日)は、日本海軍軍人

最終階級は海軍大佐。戦艦「大和」 航海長。

経歴

1905年(明治38年)、松山市河原町に 父 木和村利平、母 ツネヨの四男として生まれた。版画家の木和村正次郎(創爾郎)は実兄である。幼くして両親を失い、1914年(大正3年)3月24日に母 ツネヨの実弟である茂木氏男の養子となる。

松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)4年修了で1922年(大正11年)年8月26日海軍兵学校(53期)に進み、1925年(大正14年)7月14日に同校卒業(記念艦「三笠」の艦長を務めた福地誠夫氏とは同期である)。卒業後は潜水艦や上海陸戦隊に配属された。

1932年(昭和7年)第6期航海学生を卒業してからは航海畑一筋で、「伊号第56潜水艦」、「伊号第68潜水艦」、給油艦「知床」、軽巡洋艦球磨」、駆逐艦」、軽巡洋艦神通」などで航海長を歴任した。

また、海軍兵学校教官・監事を務め、航海科教官として67期から71期の生徒たちを指導した。

太平洋戦争開戦は、重巡洋艦鳥海」航海長として迎え、マレー作戦蘭印作戦に参加。1942年(昭和17年)7月、鳥海はニューギニア・ソロモン方面を担当する第八艦隊の旗艦となり、第一次ソロモン沖海戦、ガダルカナル島への艦砲射撃、第三次ソロモン沖海戦にも参加している。

1943年(昭和18年)6月には 戦艦「榛名」航海長となり、翌年のマリアナ沖海戦レイテ沖海戦に参加した。

開戦以来その大半を前線で過ごし、数々の海戦に臨みながらも巧みな操艦で乗艦を沈めることはなかった。

1945年(昭和20年)2月15日、戦艦「大和」航海長兼分隊長に発令され、同月19日に着任する。しかし、着任してわずか2か月にも満たない4月6日に天一号作戦が発令され、山口県の三田尻沖(周防灘、徳山湾湾口の西方約14.8キロメートルにある。南東方に開いた港。湾内の広さ約2キロメートル)[1]から沖縄へ向けて出撃。翌4月7日の坊ノ岬沖海戦にて艦と運命を共にした。享年40歳。

最期

『第一艦橋における人員の配備を見ますと、正面右側の椅子に伊藤整一司令長官が前方を向いて掛け、その後ろに参謀長、先任参謀以下司令部員が並びます。正面左側の椅子は有賀幸作艦長の席で、中央の転輪羅針儀の後ろに航海長が立ちます。その席には航海指揮用の伝声管や機関科向けのテレグラフが設置されていました。航海長の背後で中央やや後ろ寄りに磁気羅針儀があり、その後ろに電測士乙の吉田満少尉と私が並んで立っていました。』[2]

『大和は左に右に舵をいっぱいにとりながら懸命の回避運動。有賀艦長の第一艦橋の茂木航海長に下す「面舵!」「取舵!」の号令が、伝声菅も割れよとばかり響きわたる。』[3]

『艦橋に残った茂木航海長は、部下の花田掌航海長と、脚を主羅針儀の台に縛りあった。』[4]

『第一艦橋にいた浅羽満夫(中尉、水測士)によれば、茂木航海長と、花田秦祐掌航海長が白布で身体を羅針儀に縛り、「大和」と共に沈んでいったという』[5]

『そして、艦橋では、茂木航海長と花田掌航海長が、命綱で身体をコンパスに縛り、一つ上の防空指揮所では、有賀艦長が、指揮所のコンパスに身体を縛りつけていた。』[6]

『結局、一番最後に残ったのは、艦橋の上の対空指揮所にいた宮本鷹雄砲術参謀と艦橋の森下信衛参謀長と私、茂木史朗航海長、花田掌航海長だけでした。』[7]

『総員上甲板の声が拡声器から流れ、艦橋内外がざわざわし始めましたが、茂木航海長と花田掌航海長は真新しい白布で身体を縛りつけていました。ほかにも見張りの下士官が双眼鏡の架台に身体を固縛りしていました。「さあ、急がないと間に合わないぞ」と言う掌航海長の声に私も身体を固定しなければならないのだと思って、紐を探していました。そこへ参謀長が戻ってきて、航海長の肩を叩いて退去を促しましたが、航海長は返事もせずに晒布を巻きつけていました。参謀長は航海長説得を諦め、茫然自失していた私達若い士官に対して、「ここはお前達若い者の死に場所ではない」と怒鳴りつけました。』[8]

逸話

『出撃前夜の壮行宴の際、私が同僚達と共に、航海科のデッキに招かれて冷酒攻めにあっていると、茂木航海長が現れ、大勢の見守る中で、力自慢の下士官、兵数人と腕相撲をして総なめにしました。「お前達俺についてくるか、俺に命をくれるか」と酔眼で睨みまわす航海長に一同が「おう」と応えて、航海長を担ぎ上げ、お神輿のようにデッキを練り歩きました。』[9]

茂木史朗を演じた人物

高岡 建治(『男たちの大和』 2005年)

年譜

  • 1905年(明治38年) 松山市河原町にて生まれる
  • 1914年(大正3年) 茂木氏男の養子となる
  • 1922年(大正11年) 松山中学校4年修了で、海軍兵学校に入校
  • 1925年(大正14年)7月14日 海軍兵学校卒業。
  • 1926年(大正15年)12月1日 海軍少尉
  • 1928年(昭和3年)12月10日 海軍中尉
  • 1931年(昭和6年)12月1日 海軍大尉
    • 12月10日 結婚願い提出、12月21日認許
  • 1932年(昭和7年)4月24日 義父の看護により帰郷
    • 12月1日 伊号第56潜水艦 航海長就任
  • 1934年(昭和9年)11月1日 伊号第68潜水艦 航海長就任
  • 1935年(昭和10年)10月21日 給油艦「知床」 航海長就任
  • 1937年(昭和12年)6月21日 軽巡洋艦球麿」 航海長就任
  • 1938年(昭和13年)6月1日 一等駆逐艦吹雪型」航海長就任
    • 11月15日 海軍少佐
    • 12月15日 海軍兵学校教官・監事
  • 1940年(昭和15年)10月15日 軽巡洋艦神通」航海長就任
  • 1941年(昭和16年)9月10日 重巡洋艦鳥海」航海長就任
  • 1943年(昭和18年)6月1日 海軍中佐
  • 1945年(昭和20年)2月15日 戦艦大和」航海長就任
    • 4月7日 九州坊ノ岬沖にて戦死(享年40歳)
    • 4月7日 海軍大佐

脚注

  1. ^ 原 勝洋『真相・戦艦大和の最期』125頁
  2. ^ 浅田滿夫 戦艦「大和」と私 〜一予備士官の回想〜
  3. ^ 能村次郎『慟哭の海』 87頁
  4. ^ 能村次郎『慟哭の海』 109頁
  5. ^ 吉田満戦艦大和の最期
  6. ^ 吉田俊雄『戦艦大和その生と死』234頁
  7. ^ 辺見じゅん『YAMATO 』142頁
  8. ^ 浅田滿夫 戦艦「大和」と私 〜一予備士官の回想〜
  9. ^ 浅田滿夫 戦艦「大和」と私 〜一予備士官の回想〜



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