福地誠夫
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福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年(明治37年)2月14日 - 2007年(平成19年)7月26日[1])は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は日本海軍では海軍大佐、海上自衛隊では海将。退官後は記念艦「三笠」艦長を務めた。
- ^ “福地誠夫氏死去 元海上自衛隊横須賀地方総監”. 47NEWS. (2007年7月27日) 2014年11月22日閲覧。
- ^ 『回想の海軍ひとすじ物語』「日本海軍の終焉」
- ^ 公職追放の該当事項は「海軍大佐」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、64頁。NDLJP:1276156。)
- ^ a b 『官報』本紙第10500号(昭和36年12月18日)
- ^ 「昭和12年7月29日 海軍辞令公報 号外第13号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100
- ^ 「昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 第99号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「昭和13年8月1日 海軍辞令公報(部内限)号外第219号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200
- ^ 「昭和13年12月1日 海軍辞令公報 号外 第267号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700
- ^ 「昭和14年11月15日 海軍辞令公報(部内限)第402号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800
- ^ 「昭和14年12月11日 海軍辞令公報(部内限)第415号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077200
- ^ 「昭和17年6月29日 海軍辞令公報(部内限)第890号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900
- ^ 「昭和17年11月1日 海軍辞令公報(部内限)第974号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087700
- ^ 「昭和18年10月25日 海軍辞令公報(部内限)第1246号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093900
- ^ 「昭和18年12月21日 海軍辞令公報(部内限)第1285号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900
- ^ 「昭和20年9月11日 海軍辞令公報 甲 第1908号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107300
- ^ 「昭和20年12月21日 第二復員省辞令公報 甲 第18号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072162100
- ^ 『官報』本紙第8078号(昭和28年12月7日)
- ^ 『官報』本紙第14202号(昭和49年5月4日)
- ^ 父は戊辰戦争で討死した佐賀藩士。誠夫のために作成した初級士官教育資料・『百題短話』が好評で、海軍部内で広く読まれた。佐世保鎮守府人事部長、舞鶴鎮守府海兵団長。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』では植村信男(26期)が義父とされるが、福地の自著『回想の海軍ひとすじ物語』では横須賀鎮守府参謀長・植村茂夫の娘と結婚したとある。なお仲人は植村茂夫の同期生枝原百合一である。
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