海兵生徒時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 07:00 UTC 版)
藤井が入校した頃の兵学校はワシントン海軍軍縮条約の影響で、兵学校の採用生徒数が削減された時期であった。52期生は236名であったが、藤井ら53期生は62名である。皇族である伏見宮博信王、戦後に海上自衛隊の海将となる福地誠夫らが藤井の同期生である。 入校後の藤井は勉学に力を入れることは無かったが、目立つ存在であった。同期生の小手川勝彦と大アジア主義を唱えて問題になり、兵学校側は退校させることを考慮している。退校を免れた藤井であったが、時の軍令部長・鈴木貫太郎が来校した際、軍縮条約を非難し、アジアの解放を訴える演説を行った。こうした中、藤井の母校・佐賀中学出身の生徒を中心に藤井に共鳴するものが集まっていった。兵学校の休暇中は東京に行き、大川周明、安岡正篤らの知遇を得ている。1925年(大正14年)7月海軍兵学校を卒業。席次は27番であった。
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