海兵隊に入隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:03 UTC 版)
「グレゴリー・ボイントン」の記事における「海兵隊に入隊」の解説
1935年春、海軍航空士官候補生に志願するも、既婚者は除外される規定となっていた。またこの時、前述の実父の存在を知り、父方の戸籍を使えば既婚者と発覚されずに済むと判断、合衆国海兵隊予備役(英語版)制度登録後、独身者の「グレゴリー・ボイントン」として1936年2月に海兵隊航空士官候補生に志願した。以降は姓を実父のボイントンに改めている。 ペンサコーラ海軍航空基地(英語版)で航空士官候補生の訓練を受けたのち、クアンティコ海兵隊基地(英語版)を拠点とする海兵隊東海岸派遣軍の第1航空隊、艦隊海兵軍で勤務。1939年1月まで基礎学校で学んだ後、ノースアイランド海軍航空基地の第2航空群に配属。艦隊解難演習に参加、レキシントン、ヨークタウン乗組。1940年12月の中尉昇進後、ペンサコーラにて教官。飲酒癖のため閑職にいたところを、1941年9月、「1機撃墜ごとに500ドルのボーナス」に騙され、また離婚直後で経済的苦境にあったことからフライングタイガースに参加。P-40を操縦して日本軍と戦った。初陣では軽快な九七式戦闘機に格闘戦を挑んで撃墜されかけたが、一撃離脱戦法を守ることで撃墜数を増やした。中国、ビルマ戦線で戦った後、1942年11月、ジェームズ・フォレスタル海軍次官に直訴して海兵隊に復帰、少佐になる。 1943年1月、南太平洋戦線に参加、第1海兵航空団(長:ロイ・ガイガーのちラルフ・J・ミッチェル(英語版))第11海兵航空群(英語版)隷下の第222海兵戦闘飛行隊長を務めた。宴会中の喧嘩で負傷ののち後方任務に就いていたが、自ら第214海兵戦闘飛行隊「ブラックシープ」を作り前線に戻る。F4U戦闘機を操縦し、F4Uでの初出撃で零戦を5機撃墜するなどニューギニアの航空戦で活躍。11月にはブーゲンビル島のブインを夜襲し、巡洋艦を炎上させた。 1944年1月3日、ラバウル上空において撃墜記録28に達した直後、僚機を援護中に零戦によって撃墜された(第二五三海軍航空隊所属の川戸正治郎上飛曹による戦果と推定されている)。漂流中に日本海軍の潜水艦に救助される。その後、ラバウル、トラック島や硫黄島を経て大船捕虜収容所(横須賀海軍警備隊植木分遣隊)に送られた。大船では海軍軍令部の実松譲の尋問を受けた。1年8ヶ月後に大森捕虜収容所に移送され、終戦まで捕虜生活を送った。理不尽な暴力に何度もあったが、同様に上官から暴力をふるわれる日本軍兵士や日本の民間人を冷静に観察しており、親切に接してくれた日本人に対する感謝の念も忘れなかった。大船時代に炊事係となった際に、地元に住む中年の「オバサン」と親しくなり、密かに食べ物や菓子を分けてもらい、戦後に仲間が訪日するときに彼女への土産を預けたという。
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