海軍次官とは? わかりやすく解説

海軍次官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:10 UTC 版)

山本五十六」の記事における「海軍次官」の解説

詳細は「日独伊三国同盟」を参照 1936年昭和11年11月25日日独防共協定締結翌月12月1日山本は海軍次官に就任新聞記者人気があり、海軍省記者クラブ黒潮会」に山本目当て入会する者が多く次官会見座れない記者が出るほどであった山本海軍担当新聞記者家庭についても把握して話題にしていた。海軍次官時代英国大使松平恆雄葉巻山本贈ろうとしたところ、日中戦争支那事変解決までは吸わないとしたが戦死し預けたままとなった同様に次官時代執務室に「百戦百勝如一忍 玄峰」の掛軸飾っていた。次官時代山本三年接した松島慶三(海軍報道部部員によれば山本私怨さしはさむほどの小人物ではないという。1937年昭和12年)、南京総領事須磨弥吉郎との肝煎りで、対外情報収集宣伝活動目的にした内閣情報部設立関与する1937年昭和12年12月高松宮宣仁親王海軍少佐)が軍令部着任する際、海軍省正面玄関職員全員皇族出迎え計画だったところ、山本予定取り消させ、高松宮は一少佐として到着した。ただし山本は自ら親王部屋出向いて挨拶している。 次官就任山本政治手腕買っていた永野修身熱望よるものだったが、山本自身はあくまで航空本部長の職を天職だと考えており、続投望んでいた。ただ、天真爛漫な性格永野性格起伏激しい山本の仲がしっくりいかないことは、新聞記者達の間では周知の事実だったという。2か月後、廣田内閣総辞職し林内閣成立し山本海軍大臣となった米内光政の下で林内閣第1次近衛内閣平沼内閣留任する。この当時海軍省では会議のあと米内会見行わず山本会見だけで終わることもあった。米内海軍大臣就任永野最大功績一つとされ、艦隊派としてワシントン海軍軍縮条約反対し、統帥権でも問題起こしていた末次信正大臣就任阻止加藤寛治海軍大将影響力抑えるという一面もあった。 この間盧溝橋事件発生して日中戦争支那事変)に拡大第二次上海事変起きると海軍航空隊も本格的に投入された。山本外交問題の処理に携わり1937年昭和12年8月に駐イギリス大使ナッチボルー・ヒューゲッセン(en:Hughe Knatchbull-Hugessen)が日本軍機の誤爆負傷した事件12月海軍航空隊が米砲艦誤爆したパナイ号事件解決奔走する山本駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー謝罪同時に綿密な検証によってアメリカ誤解解き事件の余波最小限抑えている。だが1938年昭和13年11月25日米内南シナ海海南島占領する計画五相会議提案し閣議了承される。海軍軍令部次長古賀峯一第一部長・宇垣纏第一部第一作戦課長草鹿龍之介)も賛同し1939年昭和14年2月日本軍海南島軍事占領した。山本米英反発を招く事を懸念して反対したが、軍令部総長伏見宮賛成により制止できなかった。草鹿によれば日本の南進出見込んだ布石であったが、東南アジア多数植民地を持つ欧米列強との関係は一挙に悪化することになった3月米国客死した駐米大使斎藤博遺骨が米巡洋艦アストリア」(USS Astoria, CA-34) で礼送され、横浜港にて山本受け取ったという。4月航空本部長兼務した。 山本日独伊三国同盟の締結対し米内光政井上成美と共に最後まで反対した。このことから海軍条約三羽烏海軍左派)とも言われているが、陸軍外務省提案に対して海軍方針示していただけで、対案を出す等積極姿勢見せことはなかった。山本達の反対理由は主に、 英米との関係が悪化して支那事変解決難しくなる日ソ開戦場合ドイツは距離が遠すぎて援助支援期待できない条約日本が損をする項目があるのではないか軍事同盟締結によりドイツとイタリア中国大陸権益要求される懸念があるであった山本海軍書記官榎本重治に「世間ではオレ三国同盟反対親玉のようにいうが、根源井上なんだぞ」と不機嫌そうに語ったこともある。 三国同盟賛成派山本イメージ悪化させるプロパガンダ展開し、また暗殺風評流した山本表面的に鷹揚行動したが、密かに遺書書いている。私服憲兵護衛についた他、自宅機関銃備えられたこともあった。山本は、三国同盟賛成反英国・米世論盛り上がり日本陸軍内務省合議による組織的なものと報告した政治世論同盟締結傾き山本達は孤立していく。ところがノモンハン事件起きて日本とソ連軍事衝突起こす中、8月23日ドイツソ連独ソ不可侵条約締結平沼内閣は「欧州情勢複雑怪奇なり」の言葉を残して総辞職日独伊三国同盟第一次交渉頓挫した山本達は「(同盟締結の)だけを摘んで根元刈り取らなかった」という指摘もある。 千早正隆(戦艦扶桑」の高角砲分隊長)によると、1938年昭和13年)の「長門」後甲板上の天幕の下で行われた対空射撃研究会で高級将校最前列のケンバス椅子に、一般士官食卓用木長椅子座っていたが、研究発表中に入ってきた山本オブザーバーという立場から後方長椅子座っていたという。 1939年昭和14年から石油採れる主張した科学者海軍共済組合実験させた。海軍省先任副官一宮義之らは反対したが、山本は「君達のように浅薄な科学知識ではわからない深遠な科学というものはそうではない」とたしなめたが、その科学者詐欺だった。

※この「海軍次官」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
「海軍次官」を含む「山本五十六」の記事については、「山本五十六」の概要を参照ください。


海軍次官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

井上成美」の記事における「海軍次官」の解説

1944年昭和19年7月上旬サイパン失陥により東條内閣崩壊し小磯国昭米内光政両名組閣の大命下り7月22日付で小磯内閣発足した予備役大将だった米内特旨をもって現役復帰し副総理格で海軍大臣就任した7月28日井上米内要請受けて米内宿泊する京都都ホテル訪ねた米内に海軍次官就任懇請され、何度かのやりとり挙句米内押し切られ井上は「政治のことは知らん顔していいのなら、やります部内号令することなら、必ず立派にやります御心配かけません」と、次官就任受諾した井上はこの時のことを「自分貫禄負けだった」と述懐している。同時に米内井上軍令部総長人事について相談した米内は、軍令部総長嶋田繁太郎大将更迭することは決めていたが、米内バックアップしていた海軍出身重臣である岡田啓介大将が「海軍部内信望米内劣らない末次信正大将を、米内同様に特旨をもって現役復帰させ、軍令部総長とする」構想持っていることには反対であった井上の口から「末次」の名は一切出ず及川古志郎大将総長とすることがすんなり決まった8月5日井上は海軍次官に任命された。中将進級6年目井上次官就任に際して「特に親任官待遇賜う」という辞令受けていた。兵学校教官たち対す退任挨拶で「私は過去1年9か月兵学校長の職務行ってきたが、離職当たって誰しもが言うような、大過なく職務を果たすことができた、などとは言わない。私のやったことが良かったか、悪かったか。それは後世歴史がそれを審判するであろう」と話した次官就任し機務接す立場となった井上は、戦局絶望的であること、それを直視して根本策(戦争止める策)を実行しようとする勇気欠けた海軍中央の雰囲気知った8月16日特攻兵器震洋検討会で、草鹿龍之介中将とともに生還可能性考えてほしいと意見するが、最終的にそういった措置が採られることはなかった。 8月29日井上大臣室で米内に「日本の敗戦動かしがたいので内密に終戦研究終戦工作)を始めるので大臣軍令部総長には承知願いたい」旨を具申し続けて研究には海軍省人事局高木惣吉少将充てたいこと、その為に高木を「海軍省出仕次官承命服務」にしたいと述べた同日井上高木次官室に呼び快諾を得ると彼を病気療養という名目海軍省出仕扱いとした。高木目立たない執務場所として海軍大学校研究部選ばれたため、高木への辞令は「軍令部出仕 兼 海大学校研究部部員」となり、職務内容は「次官承命服務」となり、翌年1945年昭和20年3月には「兼 海軍省出仕」の肩書追加された。 井上の命を受けて高木海軍部外の志を同じくする要人有識者の間を精力的に回り出したその時高木背広姿であったが、時には海軍の錨マークがついた公用車乗って要人有識者私邸急行した戦争終結密かに考えていた彼らは「海軍現役将官をして正式に和平への道を探らせ始めたこと」 の証を見て大い勇気づけられた。高木原田熊雄松平康昌通じて昭和天皇側近重臣自分の考え伝えた岡田啓介大将宅を訪問して報告し指示受けた細川護貞を介して近衛文麿元首相に、さらに近衛通じて高松宮に意を通じた現役海軍大佐である高松宮には、高木直接報告して連絡密にしていた。高木このような活動により、あまり仲の良くなかった岡田近衛徐々に理解し合い、共通の目的ある戦争終結動き始めた戦後井上は、「終戦工作実を結び八千同胞玉砕せずに残れたのは高木少将の力である。私はそれを命じただけ」と言い続けた一方高木は、井上成美伝記刊行会事務局に宛てた1979年昭和54年6月末日付の書簡で「井上大将は私が功労者のように述べておられますが、以前述べた如く私はお使い小僧に過ぎなかったので、米内井上上司の考を関係要所浸透させるのが私の任務でした。ただ、井上次官隠して実行したことは、陸軍課長級直接接触して何とか陸軍態度緩和させよう努力したことだけです。むろん失敗終わりました」と述べている。戦後井上は「秘密にやったんです。高木さん職務書き物訓令出さない書類は残さんぞ、だけど、[中略]公の職務として高木君がもらったものなんですよ。[中略高木君が酔狂で、海軍省遊んでいるからブラブラしててやったという問題じゃないんです。公務なんですから、陸軍松谷荒尾佐藤中略]これらは個人としてそういう考え持っていたというだけのことで、[中略高木君を同じレベル並べて見た大変な間違いなりますから、その点を一つ間違いなく見て頂きたい」と証言した井上は、同時に、仮に「高木自身和平賛成しなくても、その準備をしなければならない立場にあった」ことを歴史とどめるべきだと言っている。 海軍大臣副官秘書官であった岡本中将によると、高木はしばし井上次官室に訪ねて話をしていた。また、核心触れる話については、夜に井上が住む大臣官邸訪ねて例え近衛私生活上の話に至るまでのあらゆる情報伝えていた。井上高木にとって最重要なことは「一日早く戦をやめること」であり、そのためには如何なる犠牲払って良いというほど、二人決意徹底していた。陸軍重臣譲れない講和条件としていた「国体護持」についても、二人関心次第薄れていった。 高木の他に、井上と志を同じくする者が海軍部内にいた。海軍省兵備局課長浜田祐生大佐であった浜田1944年昭和19年)に海軍大臣官邸開かれた戦備幹部会で、物的国力現状詳細に説明しこのままでは戦争継続不可能であることを大臣総長に分らせようとした説明1時間以上も続いた後、井上は「戦争終結」を口に出しかねまじき浜田意図見抜いて浜田、もう止めろ」と制止した浜田は、当直の晩ごとに大臣官邸井上訪ねて戦争終結急いで欲しい」と頼んでいた。浜田井上-高ライン活動知らず井上そのこと浜田告げることは出来なかった。戦後井上自分住所録の中の浜田の名に「[先見の明あり、大忠臣終戦の必要を井上次官]に申出づ。[大海軍で只一人]と添え書きしていた。 1944年昭和19年9月5日陸海技術運用委員会設置され井上陸軍省次官とともに委員長務めた。特殊奇襲兵器開発のために陸海民の科学技術一体化図られた。 10月25日井上フィリピン沖海戦損傷した艦船修理に関して石油ボーキサイト還送支障あってはならないタンカー貨物船建造が遅れ、その後特長ある作戦必要な特攻兵器などの建造計画影響あってはならない軍務局長多田武雄中将運輸本部長堀江義一少将指示したレイテ沖海戦連合艦隊事実上壊滅し1945年昭和20年2月以降は、南方石油内地輸送する道が絶たれ僅かな残存艦艇動けなくなった海軍勢力衰え海軍陸軍戦力バランス崩れたことで、陸軍主導の下に「陸海軍一元化」が画策され3月10日に、海軍大臣米内、海軍次官の井上軍令部次長小沢治三郎中将井上海兵同期)らに、陸軍対応する職階の者たちが「陸海軍一元化」を呼びかけてきた。しかし和平のために活動している井上がこれに同意するはずがなかった。当時井上考えは、いくつかの書類書かれ現存している。陸軍海軍吸収され国軍一本化するということは、「本土決戦」で徹底抗戦するという陸軍の戦略に従うことであり、米内井上の到底容れ得ることではなく両名頑とした反対により陸海一元化阻止された。 井上によれば、これに先立つ1944年昭和19年12月海軍大臣官邸での会食の後に、井上二人きりになった米内井上に「俺はくたびれた井上、お前に大臣を譲る」という旨を言った井上は「陛下御信任で小磯さんとともに内閣つくった人が、くたびれたくらいのことで辞めるなんていう手がありますか今は国民みな、命をかけて戦をしているんではないですか。少なくとも私は絶対引き受けませんよ」と即答した大臣秘書官岡本中佐によると、翌年1月10日にも同様の問答があった。高木は、2月26日に、横須賀海軍砲術学校教頭務めていた高松宮訪問し小磯米内内閣更迭場合海軍首脳陣容について高松宮から問われ3つの案を提示したそのうち1つの案では、井上大臣擬せられていた。井上回想によると、4月1日海軍省人事局長の三戸寿少将日曜午後大臣官邸自室にいた井上訪問し人事異動の案を示した。そこには「大臣井上」とあった。井上三戸に「だめだ、次官がやれるから大臣もやれると言うもんではない。私は大臣不適なことは自分よく知っている米内さんそのままやって貰うんだ」と言った井上は「危機一髪、之で三度」と表現している。 井上中将進級1939年昭和14年11月15日)から5年経過して現役で海軍次官の要職にあった太平洋戦争中は、中将進級し5年経過して現役にある者は大将親任される慣例であった。これを反映して1944年昭和19年)の暮れごろに、米内大将親任の話を井上持ちかけた。この時井上は「大将にすると言うのは次官をやめろということですね」と米内念押しし、「和平玉砕か、国家運命岐路に立たされている時、何故、己の片腕とも頼むものを切ろうとするのか」と暗に米内訴えた井上は、1945年昭和20年1月20日付で「大将進級に就き意見」と題して毛筆一文書き米内に、正式に自分大将親任反対意志表明した次いで2月3日には「当分海軍大将進級中止の件追加」と題した一文米内提出した井上回想によると、3月半ば海軍大臣官邸米内井上二人だけになった時、米内が「4月1日付で、塚原二四三中将井上大将にする」と告げた井上は「『戦敗れて大将あり』ですか。今、大将二人つくらない海軍が戦をやっていくのに困るわけでなし、この戦局なのに、大将なんかできたら国民は何と思いますか。その上私は人格技能戦功、どれ一つとって考えても、自ら大将なんていう器ではないと考えてます。米内大将もやはり月並みの男だなと笑われないように、篤と考えになったらよいでしょう」と返答した2、3日して、米内から井上に「塚原も君も今度大将見合わせだ」という言葉があり、井上は、自分進言米内聞き入れてくれたことに謝意述べた1945年昭和20年4月5日小磯内閣総辞職した戦局末期的様相帯びてきたのがその主因であったが、井上 - 高木の工作によって、ようやく重臣たちが陸軍主導内閣排し和平模索する方向取り始めたことを意味し井上高木にとっては、和平早期実現好機であった。ただ、米内は、小磯と共に前年7月組閣の大命受けた経緯があるので、新内閣に留任するのは「政治道徳」上至難であるという問題があった。井上は、内大臣木戸幸一から、高木通して組閣の大命は、枢密院議長鈴木貫太郎海軍大将に下る見込み」との内報を受け、それに賛同すると共に条件として「鈴木大将は人物度胸申し分ないが、失礼だが総理として必要な政治感覚乏しいと思う。それ故鈴木内閣出来とすれば米内大将は是非共鈴木さん片腕相談役として入閣して貰う必要がある。之は絶対条件と思う」と、木戸返答するように高木指示した。これは、海軍部内誰にも相談せず井上一人独断決めたことであった4月5日鈴木組閣の大命が下ると、井上は、高木に「海軍総意米内海相留任である」と鈴木伝えるよう命じ鈴木承知させ、その後海軍首脳了解取り付けた。この「海軍総意」は、実際井上一人考えだった。その後米内自身海相留任難色示したが、井上押し切った井上は、米内4月25日付で「当分大進級不可とする理由」という文書を三たび提出した。しかし井上回想によると、5月7日8日井上大臣室に呼ばれ米内から「陛下塚原と君の大将親任御裁可になったよ」と告げられた。井上は「陛下御裁可があったのでは致し方ありません。あたりまえなら大臣お取り計らいお礼申し上ぐべきでしょうが、私は申しません。なお次官は罷めさせて頂けますでしょうね」と答え米内が「うん」と答えて井上次官退任決まった井上は「“負け戦大将だけはやはりでき”、こういう句ができましたよ」と米内言い残して大臣室を退出した井上は、戦後この日のことについて「それで米内さん喧嘩別れしちゃったんだ(中略それっきり仲直りしてません。その問題についてはね」と語っている。 米内井上が「喧嘩別れ」した経緯については、諸説がある。ただし、米内井上考えが、和平という大筋では一致しても、具体的な方法について一致していなかった可能性がある。井上戦後小柳冨次中将に「米内大臣は、一度何処かアメリカ軍を一叩きしたあと、和平持って行ってはどうかと考えておられたが、私はそれはとても望みないと思っていた」と語っている。3月硫黄島攻略されて、米軍戦闘機P-51が進出し以後直掩機のP-51に守られB-29本土空襲急速に規模回数増し非戦闘員犠牲幾何級数的に増加した井上毎日のように「大臣手ぬるい手ぬるい一日早く戦をやめましょう一日遅れれば、何千何日本人無駄死にするのですよ」と米内責めときには具体的な計数まで示して説得していた。井上は、4月初めに日本執るべき方策』と題した十数所見米内提出したこの所見は、米内の「沖縄をとられたらどうするか」という質問への井上の答であり、その趣旨は「独立と言うことだけが保たれれば、他はどんな条件でもよいから戦をやめるべきである。米軍本土上陸前講和をしなければ日本人国民性から考えると、米軍対し徹底的に抗戦し遂に講和する母体まで消滅させてしまうであろう。それを防ぐため中立国ソ連スウェーデンスイスでも可)を介して速やかに交渉開始すべきだ」というものであった井上にとっては、もはや、国民生命以外守るべきものは何もなかった。井上は「(1945年昭和20年))5月終戦チャンスはあった。もちろん、米内井上殺されるほどのことはあったろうが…」と回想する。さらに、7月26日ポツダム宣言が発せられてから、8月15日まで、天皇制護持めぐって20日間も終戦決定先送りされたことについて、高木に「天皇制認めないといっても、終戦すべきであった」「そうすれば広島長崎悲劇はなかった」と語っている。近衛木戸などの天皇側近は、国体護持既存国家体制維持前提としての休戦望んでいた。一方上記のように、井上一般国民の側に立って一日早い休戦望んでいた。 井上海軍大将親任された5月15日付で海軍次官を免じられ、軍事参議官親補された。その翌日から1か月間、井上40年間近い海軍生活初め長期休暇をとり、伊東にあった海軍将官保養所滞在したその後井上東京戻り水交社起居した。水交社には、支那方面艦隊参謀長時代井上参謀として仕えた海軍省軍務局員の中山定義中佐宿泊していた。中山調査課員を兼務しており、リアルタイム機密情報知り得る立場にあった井上毎日夕食時に中山顔を合わせると、中山が知る限り情報聞き要点確かめ注意事項指示した高木新たに次官になった多田武雄中将を「ボンクラ次官」と評して頼りにせず、井上帰京後は「報告先が、次官室から水交社に代わっただけ」と回想するように、和平工作井上 - 高木のライン中断することなく続けた7月26日連合国ポツダム宣言発し、これに対して鈴木が「黙殺する」と語ったことで内外混乱生じ8月6日広島への原爆投下8日ソ連の対日参戦9日長崎への原爆投下事態急速に悪化して10日日本政府はようやくポツダム宣言受諾決定して午前6時45分スイススウェーデン両国通じてポツダム宣言受諾無電発した同日午前11時に海軍元帥軍事参議官らが米内光政海相招かれポツダム宣言受諾至った経緯説明受けた米内秘書官に「居並ぶ大将連が、いずれも残念そうな顔つきをしていたのに、井上大将だけはひとりすがすがしい顔をしていた」と語った8月15日以降軍令部次長大西瀧治郎中将割腹自決第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将特攻沖縄沖で海面墜落)が続いた8月16日開かれた大将会」で、井上は「事態斯くなれること其他につき、夫々責任地位にある人が、自殺する人がある様なるも、成る程自殺すれば当人気持としては満足なるべく、又自己の生涯を飾るべきも、而し此の大事な重要な人々次々と此の如くして所謂自殺流行にして後を顧みぬ云う事は国家損失なり」と戒めた井上は、海軍で最後の仕事として、第五航空艦隊の「査閲」を、海軍大臣米内から9月10日付で命じられ第五航空艦隊の各基地において最寄り航空部隊指揮官及び関係幹部集めて、彼らの執った処置復員状況について調査し統制ある終戦処理推進して帝国海軍有終の美を飾るよう説いた10月10日待命10月15日予備役編入されて、兵学校入校以来39年間の海軍生活終えた井上はこの時55歳だった。敗戦後進駐してきた米軍との折衝部下伴って赴き、部下英会話力が不十分と見た井上は、脇からキングズ・イングリッシュ話し始め全ての要件片づけてしまった。

※この「海軍次官」の解説は、「井上成美」の解説の一部です。
「海軍次官」を含む「井上成美」の記事については、「井上成美」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「海軍次官」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「海軍次官」の関連用語

海軍次官のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



海軍次官のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの山本五十六 (改訂履歴)、井上成美 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS