海軍機関学校時代
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1933年(昭和8年)4月、海軍機関学校(京都府舞鶴市、現在は海上自衛隊舞鶴地方総監部、第四術科学校などになっている)に、第45期生として入校する。第一次世界大戦以降、日本の機関技術は目覚ましい進歩を遂げ、太平洋戦争ではタービンやボイラー等の機関の故障による作戦への重大な支障はなく、機関学校の教育水準の高さの証となった。浜口も「機関学校教育こそ最高の教育」と語っている。 機関学校では日曜日や公休日にも訓練や実習があり、まさに「月月火水木金金」の厳しさだったが、休日午後は夕食までの間外出が許可され、生徒倶楽部(東舞鶴市内に指定された民家)に行ったり、市内散策をして浩然の気を養った。 心身鍛錬の科目は特に厳しく、短艇(カッター)訓練では、臀部の皮膚が破れ出血し、浴場の湯が赤く染まったという。また闘球(ラグビー)が体育教科の一つで、当時最強と言われた京都帝大を破ったことを自慢としていたが、試合中に負傷した右手薬指は終生曲がったままだった。 45期の同期には、松平春嶽の孫で後に陸上自衛隊を経て靖国神社宮司となり、「戦犯合祀」を実施したことで知られる松平永芳がおり、戦後も時折懇談した。
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