フィリピンおき‐かいせん【フィリピン沖海戦】
読み方:ふぃりぴんおきかいせん
レイテ沖海戦
(フィリピン沖海戦 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 07:01 UTC 版)
レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、英語: Battle of Leyte Gulf)は、第二次世界大戦中の1944年10月20日から25日にかけて、フィリピン周辺の広大な海域を舞台に日本海軍とアメリカ及びオーストラリア両海軍からなる連合軍との間で交わされた一連の海戦の総称である。フィリピン奪回を目指して侵攻する連合軍を日本海軍が総力を挙げて迎撃する形で発生した。
注釈
- ^ 太平洋戦争の公刊戦史である「戦史叢書」で本海戦を扱っている56巻でもこの名前が使われている。当時の戦闘詳報や大本営による発表でも「フィリピン沖海戦」とされ、当時のニュース映像でもそう紹介されており、レイテ沖海戦とは呼称していない。
- ^ 1、陸軍1個師団を載せた輸送船団(8万総トン)と北方方面を担当する第五艦隊に乗船した陸軍1個連隊をサイパン島に向かわせる。 2、第一機動艦隊の残存空母瑞鶴・瑞鳳・龍鳳・隼鷹・千歳・千代田に練習航空隊や陸軍の戦闘機を中心とした約200機を搭載し、第二艦隊と共に出撃させる。艦載機は発艦のみとする。 3、第一機動部隊の約200機・硫黄島の八幡空襲部隊を中心とする約100機・ヤップ島の約50機、計350機をもってサイパンを攻撃し制空権を奪還、帰路は周辺のグアム、テニアン、ロタの友軍基地に着陸する。 4、第二艦隊はサイパンに接近し所在の敵艦隊を撃破。その後第五艦隊をサイパンに突入させ、その支援の下、陸軍1個連隊を上陸させアメリカ上陸部隊を駆逐する。5、輸送船団をサイパンに入泊させ防御を固める(光人社NF文庫 佐藤和正著「レイテ沖海戦」48・9p)というものだった。
- ^ この作戦要領は原本は終戦時に破棄されて存在せず、当事者たちの記憶をもとに戦後記録されたものである。そのため記憶違いな点もある可能性や、発令後の関係各部隊との作戦打ち合わせ等での修正点などが盛り込まれているか判定されておらず、実施時とは異なる可能性もあるので注意
- ^ 結局、台湾沖航空戦において連合艦隊は独断で「基地航空部隊捷一号作戦」を発動する。結果は航空戦力の多くを失うが逆に米機動部隊の損害は殆どない完敗となってしまい、「敵の先制攻撃を耐えて引き付けてからの総反撃」だった作戦が、「米軍引き付けた時点で航空戦力が壊滅している」という陸軍が指摘してきた問題をほぼそのまま繰り返してしまい、事後の作戦に重大な影響を与えてしまう[9]
- ^ それまで連合艦隊と同じく天皇に直接隷属する立場であった支那方面艦隊・海上護衛総隊や各鎮守府・警備府を連合艦隊司令長官の指揮下に置くことで、指揮権の一元化を図った。
- ^ それまで海上機動部隊所属の航空隊に採用されていた空地分離方式を基地航空隊にも採用した。
- ^ 3月頃より内密に進められていた水上、水中各種特殊攻撃兵器(後の震洋・回天・桜花など)の研究開発を本格化する。但し実際にレイテ沖海戦で行われた神風特別攻撃の採用ではなく、専用の特攻兵器の開発とその運用法の研究を始めたという意味である。
- ^ 1943年(昭和18年)頃より本格化しだしたアメリカ潜水艦による通商破壊戦により、損害を肥大化させ、マリアナ沖海戦頃には軍艦艇ですら損害を被るようになっていた。そのためサイパンの戦いに巻き込まれて司令部が全滅した第三水雷戦隊を解隊し、対潜機動部隊第三十一戦隊を設立した。
- ^ 1944年8月20日時点での編成は、軽巡洋艦五十鈴(旗艦)、第三十駆逐隊(卯月・夕月・秋風・皐月・夕凪)、第四十三駆逐隊(松・梅・竹・桃)、海防艦干珠、満珠、笠戸、三宅、第22号
- ^ この時点では第一遊撃部隊(栗田艦隊)、第二遊撃部隊(志摩艦隊)は機動部隊本隊(小沢艦隊)と共に機動部隊(小沢治三郎中将が指揮官)の指揮下だった。
- ^ 後年小沢はGHQの調査による陳述書において、この時の事を「中略…余りにも拙い微力な航空戦力を以てしては、全水上部隊の主力となりえず、僅かに水上艦艇の偵察か上空警戒を担当する程度の実勢にすぎないであろう。このような航空戦隊に乗艦して、私が戦艦部隊を含めて水上部隊の最高指揮官となることは砲戦力を主とする栗田中将の自由な指揮を拘束するばかりでなく、その作戦遂行上も不利が多いと考え、豊田大将の希望案に対して強く反対した。」と述べている
- ^ 同司令はこの他にもサマール沖海戦当日の記述で、栗田長官が米機動部隊(実際は米護衛空母の1群だったが)への追撃を取りやめてレイテ湾への突入を再開する指令を出した事を「何を考えたか〜」と意外であったととれる記述をしている。
- ^ マリアナ沖海戦までは他に第10、61駆逐隊がいたが第10駆逐隊はマリアナ沖海戦後には駆逐艦朝雲のみとなったので7月10日に解隊され、秋月型駆逐艦(初月、若月、秋月)で構成される第61駆逐隊は同じく1隻だけ(霜月のみ)となった第41駆逐隊と共に、臨時に第二駆逐連隊を編成(司令は第61駆逐隊司令が兼務)して第三艦隊に残留したので第一遊撃部隊への移籍には第17駆逐隊のみが加わった。
- ^ 足柄・木曾・多摩
- ^ 不知火・薄雲
- ^ 曙・潮・霞
- ^ 若葉・初春〈※初霜は別海域で船団護衛任務中〉
- ^ 元々フィリピンは「マッカーサー王国」などと揶揄されるほど、マッカーサーにとっては父親の代より利権を多く握っていた国だった。マッツカーサー自身も米陸軍復帰前はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。そのため、マーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる書簡を送っている
- ^ なお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャル大将はやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張している。(谷光太郎『アーネスト・キング』第12章、『第2次大戦の米軍事戦略』第2章P74、第3章P161、第4章P212-213等も参照。)
- ^ これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。
- ^ 攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。
- ^ なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディー上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能なことは明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにすることはできなくなった(福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三、谷光太郎『アーネスト・キング』第11章等に拠る)
- ^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行い誤報であることが判明したと戦後に出版した著書などで主張し、戦史叢書(海軍側の37巻「海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで」だけ、陸軍側の41巻「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」には美濃部の名前は登場せず)にも同様の記述があるが、この記述の殆どは美濃部自身の証言に基づくもので、事件後まもなく、ダバオに出向き事件の調査をした軍令部参謀の奥宮正武中佐も、誤報は玉井の偵察飛行で判明したことや、玉井の「陸・海軍を合わせて、大ぜいの参謀がいるのだから、誰か高いところに上がって、状況を確かめればよかった。机の上の作戦とはそんなものだよ。」などの愚痴も聞いたと記述している。美濃部の著書では、美濃部が奥宮から事情聴取を受けたと記述しているが、奥宮の著書には美濃部からの事情聴取の記述はない
- ^ 実際には、比島寄りの部隊とされたミッチャーの部隊はキンケイド中将麾下の第7艦隊であり、18隻の護衛空母を機動部隊と見誤っていた。ミッチャーはハルゼー機動部隊の第38高速空母部隊指揮官でハルゼー大将の指揮下にいた
- ^ これは海軍の発表していた台湾沖航空戦での大戦果を、牧野師団長ら現地陸軍部隊が信じて疑わなかったため
- ^ 例えば軍令部特務班長柿本少将は16時6分に関係各部署に宛てた敵情判断では「現在までの通信状況によれば、スリガオ方面敵上陸作戦は味方防備手薄なる方面に多雨する浸透作戦ないし航空基地獲得を目的とする程度のものにして、大規模本格的比島攻略作戦とは認められず」と通知している
- ^ なおマッカーサーは翌日以降も上陸して戦線を視察するもその都度乗艦に戻っており、彼が上陸してタクロバンに指揮所を設けたのは、栗田艦隊が湾前で反転する少し前の25日10時頃だった
- ^ 19日午後に草鹿参謀長よりX日を24日黎明時に変更する事が可能か確認の電文(GF機密第191453番電)が届くが、この時点ではブルネイに計画通り油槽船がいるか確証がなく、24日黎明の突入ができるかどうかは判断できない状況だったので直ぐの返信を避けている
- ^ 第五戦隊にはこのほか最上が第五戦隊指揮下のもとリンガ泊地で訓練等に従事していた
- ^ 連合艦隊捷号作戦要領では第一遊撃部隊の上陸地点の突入は上陸開始から2日以内とされ、それを過ぎると上陸部隊は内陸に進軍して射程圏外に移動している可能性が高く物資も揚陸されて何処にあるか把握できない状態となり、突入の効果がないと判断されていた。このため作戦通りで言うなら突入は22日までに実施するものとされていた。しかし連合艦隊は期日内での突入が無理となっても作戦計画を予定通りに実施する決断を下し、これが第一遊撃部隊の指揮官たちの中にくすぶっていた「突入しても既に敵は奥地に進撃していて効果はないのではないか」という疑念を増すことになり、後々反転を決断する遠因の一つとなった。
- ^ 軍令部は第二艦隊のため、20日に萬栄丸、御室山丸、日邦丸、厳島丸に5隻の海防艦千振(旗艦)、十七号、十九号、二十七号、怒和島を護衛につけシンガポールから回航を命じていたが、この手配は栗田艦隊の出撃に間に合わなかった。その後日邦丸、厳島丸はコロン湾への進出を命じられ、両船共25日にブルネイを出港したが、27日バランバンガン島沖でアメリカ潜水艦バーゴールの雷撃を受け、日邦丸は沈没、厳島丸も航行不能となった後31日に空襲で沈没した。
- ^ 二手に分かれて進撃する事自体は第一遊撃部隊のなかで初期より検討されており、連合艦隊でも挟撃の効果とリスク分散の見方から二手に別れて進撃するよう要望していた。第一遊撃部隊がリンガ泊池を出撃した時点で部隊を第一第二部隊に分けて編成しているのもその点を考慮したものである
- ^ 進撃航路は4つの案が検討されたが、大きく迂回する第一航路は期日通りに突入することが不可能なので除外され、第三航路は第二航路よりも敵制空圏に早く侵入するので見つかる危険が高いので主力の進路候補から除外された。一方第三部隊の進む第四航路は距離は最短であるが敵潜水艦と会敵する危険が大きく、最も早くに敵制空圏に入ってしまうので大部隊だと早期に発見される可能性が高かった。小柳冨次は「まる一日無駄に過ごした」と述べている。栗田は戦後『決断』の会見記で「パラワン水道を行かずに、第一航路の西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです」と述べた。
- ^ 第三夜戦隊配属となった第四駆逐隊から野分を分離、同じく二水戦第二駆逐隊の清霜を臨時に第十戦隊麾下に加え、野分と共に三番隊を編成した
- ^ 原文「①第一遊撃部隊主力(4S、5S、7S、1S、2Sd、10S)22日0800ブルネイ出撃 実速力16ノット パラワン北航路、24日ミンドロ南方 爾後実速20ないし24ノット 同日日没時サンベルナルジノ東口 X日0400スルアン付近到達 泊地突入 ②第三部隊(2S、最上、駆逐艦4)22日午後ブルネイ出撃 スル海経由Xマイナス1日日没時ミンダナオ海西口 スリガオ海峡経由 第一遊撃部隊主力に策応しX日黎明時泊地突入」
- ^ 第三十一戦隊から五十鈴を、第十一水雷戦隊から多摩を分離し臨時編成
- ^ 多摩艦長が兼務
- ^ 秋風艦長が兼務
- ^ うち1機は沖縄大東島付近に不時着するも搭乗員は死亡、1機は沖永良部島付近に不時着しこちらの搭乗員は生還した
- ^ この時点では別行動中
- ^ 補給点(Fueling Area)には常時9〜10隻のタンカーなどが待機し、残量が所定のレベルに下がると、残りを次のタンカーに移載し、3 - 4日ごとにウルシーに後退、そこで本国から派遣されてきた商用タンカーから燃料を受け取るというものであった。一方空母は、グアム、エニウェトク、マヌスから、高速空母への補充機と搭乗員を運び、弾薬、需品なども補給していた。冷蔵船や郵便船なども存在していた。
- ^ コリンズ司令官も負傷したこともあってオーストラリアと共に撤退している
- ^ 左舷高角砲指揮官と見張り員の一部が魚雷発射の気泡のようなものを至近で発見していたが報告のいとまもなく魚雷を受けた
- ^ 面舵を切るよりも取舵をとった方が躱せると判断したうえでの指示
- ^ 藤波自体は27日に撃沈され総員戦死しており同艦自体の記録はない[188]
- ^ 航空攻撃に策応し第一遊撃部隊主力は日没一時間後サンベルナルジノ海峡強行突破の予定にて進撃するも0830より1530敵艦上機来襲延機数約250機、暫次頻度及機数増大しあり、今迄のところ航空索敵、攻撃の成果も期しえず逐次被害累増するのみにして、無理に突入するも徒に好餌となり成算期し難きを以って、一時敵機の空襲圏外に避退し友隊の成果に策応し進撃するを可と認めたり
- ^ この電報の発電時間に関して当時大和の通信士官だった小島清文は著書「栗田艦隊」などで受け取ったのはガンルームで夕食をとった後の17時30分ごろで、電信室に回して打電し終えたのは18時前後であると書いているが、小島の上官で上記著書にも出てくる通信士都築卓郎はこれを明確に否定している。都築によるとこの時間帯の大和は総員戦闘配備中で悠長にガンルームで夕食をとるはずがない。小島は無電を打って10数分後に都築に呼ばれて艦橋に行き、栗田長官から18時15分連合艦隊司令部発の「天佑を信じ全軍突撃せよ」の電報を見せられ「この電報はこちらが(18時に)打った電報を見た上でのものか、どうか」と尋ねられ、「時間的に見てそうだと思う」と回答したとも書いているが、「天佑を信じ〜」の電報は18時15分発だが大和への受電は18時55分であり、小島のいう18時発電から10数分後にはまだ大和以下栗田艦隊司令部にはその電報は届いていない。また海軍の無電の送受信方法(後述)から考えて18時頃に打った電報が10数分で相手に着信して暗号解読を経て内容が判明し、その返信を打つのは物理的に不可能であり通信士官たるものがそのような事を理解せず「そうだと思う」と発言するのはおかしい。そもそも都築自身この時艦橋に小島を呼んだ記憶もないし電信室の責任者は別におり小島はその一員に過ぎず、長官が真偽を確かめるのに責任者を呼ばず小島を呼ぶのも不自然である。都築は以上の事からこの内容は小島の創作であり、自身の存在を大きく見せる(栗田長官に直接呼ばれるほど)売名行為であると「なにわ会」会報97〜99号にかけて述べている[193]。
- ^ 栗田艦隊所属の利根艦長だった黛治夫大佐は「今時天祐などあるものか!確信などあるものか!」と激怒している。
- ^ ただし、この時合流した艦隊が実際には主隊から分離した伊勢以下の前衛艦艇6隻だったのではないか、という指摘も存在する[219]。
- ^ 第1群は先鋒としてフィリピンや台湾等を攻撃して消耗していたため、補給のため別行動をとっていた
- ^ ハルゼーが小沢艦隊撃滅を優先したのは、ニミッツの命令もあったが、航空畑出身であったハルゼーは日本軍空母が最も優先される攻撃目標と考えており、その撃滅を優先したことと、小沢艦隊の戦力を見誤ったからであった(詳細は#海戦への評価で後述)。戦後に小沢中将は米国戦略爆撃調査団からの尋問で「囮、それが我が艦隊の全使命でした。何よりも大きな関心事は、少しでも北方に敵艦隊を引き寄せることにありました」と証言しているが、この証言を知っててなおハルゼーは「小沢の空母部隊がもっと善戦しなかったことに戸惑っている」「この交戦の興味深い特徴は、空の対決がついに生起しなかったことである」と小沢中将の囮作戦に嵌ったことは、はぐらかしている。しかし「こちらの攻撃隊は敵空母の甲板にかろうじて一握りの飛行機と、飛行中のわずか15機を発見した」と日本軍空母隊の航空戦力が思いのほか乏しいという報告を受けていたことは認めている
- ^ 第34任務部隊編成の電文は「予令」であり、実行命令ではない。
- ^ 栗田艦隊のサンベルナルジノ海峡通過とこの後に続くサマール島沖での不意の交戦は、アメリカ海軍側の下記の不手際が続いた結果招いたものであり、戦後に大きな論争を巻き起こすこととなった
- ^ 全機が九九式双発軽爆撃機で編成
- ^ 全機が九七式重爆撃機で編成
- ^ 従来の説では西村隊にも栗田艦隊の突入を支援するための囮の任務が与えられていたというものもあるが、21日の栗田艦隊司令部からの作戦司令にも、第三部隊が翌23日に出した作戦説明の電報「第三部隊命令作第1号」にも囮もしくはそれに類する作戦内容の記載はなく、あくまでも主隊と連携してレイテ湾に突入して挟撃するのが任務であるとしている
- ^ 田中少佐は満潮沈没後米軍の捕虜となり、戦後復員したのち自身と同様捕虜となっていた朝雲艦長柴山一雄少佐と共に史実調査部の聞き取り調査を受けていた
- ^ この2隻以外の戦闘詳報は乗員が殆ど戦死したなどの理由で作成されておらず、旗艦山城がこの無電を着電し、西村司令がこの電文内容をこの時点で把握していたかは不明である
- ^ 21日に行われた作戦会議で提示された機密1YB命令作第4号や、その後に連合艦隊や関係各部隊へ通達されたラブアン基地機密212053番電など
- ^ 黎明は日の出の約2時間前を指す。当時の日の出については駆逐艦時雨戦闘詳報6Pに10月26日の日の出時刻として6時40分の記載があるので、そこから考えると25日黎明は4時半過ぎとなり、ほぼほぼ近い時間帯となる
- ^ これについて、西村が突入時間を繰り上げたという指摘がなされる事があるが、実際は記載の通り第一遊撃部隊のレイテ湾突入は25日4時若しくは黎明時と出撃前から明示されており、この指摘は正しくない。只、出撃日の22日に部隊内に通達した「第三部隊命令作第1号」では「…スリガオ海峡よりタクロバン泊地に突入し日の出前後にわたり敵船団及び上陸軍を捕捉殲滅す」とあり[236]、軍艦最上戦闘詳報8Pにも「第三部隊は0430ドラック(米軍上陸地点の一つ)沖着の予定にて、当初の計画よりも数時間繰り上げられたり(如何なる情況判断なりや司令部の意図不明)」の一文がるので、部隊内では突入が繰り上がったと思われていたと思われる。
- ^ 大和戦闘詳報によると、この電報は発信手続きがとられたのが同時刻で、実際の発信は22時42分であったと記載している。その時点で第三部隊は敵魚雷艇と交戦中で、受信自体は最上に記録があるが時刻の記載がなくどの時点で西村部隊に届いていたかは不明
- ^ 西野氏はこの違いを、後方から続行していた第二遊撃部隊が「第三部隊は単縦陣で突入した」と報告し、一艦長の西野氏の証言より艦隊司令部の証言の方を戦史叢書が採用したからと、佐藤和正著「艦長たちの太平洋戦争」で述べている。しかしレイテ沖海戦の各戦闘詳報で、第三部隊の態勢を詳細に報告しているのは当の西野が艦長を務めた時雨の戦闘詳報だけであり、それには単縦陣と図入りで報告している。戦史叢書も恐らくこれを基に作成していると思われ、海戦当時と戦後で西野の証言が食い違う事になる。「艦長たちの太平洋戦争」での西野のインタビューは終戦から20年以上も経過し、老境にさしかかった頃のものであり、西野の記憶違いの可能性が高い
- ^ アメリカ海軍第33魚雷艇戦隊のPTボートPT-490、PT-491、PT-493の3隻
- ^ 死者2名、艇長を含む全士官が負傷し機関室に浸水。
- ^ 栗田が再反転を報じている1YB機密第241939番電及び1YB機密第242145番電は連合艦隊などには届いているが、機動部隊本隊の記録にはない。当時第四航空戦隊司令として戦艦日向にいた松田千秋少将は「海戦後本土に帰港して小沢とあったとき、小沢が「栗田艦隊が再反転してレイテ湾に向かっているとは知らなかった」と言ったと証言している
- ^ この無電は第四航空戦隊戦闘詳報には8時1分に着電の記述があるが、栗田艦隊には着電の記録はない。旗艦大和の記録だけではなく、所属艦艇の記録にもこの電報の着電の記録はない
- ^ 瑞鶴13機:小林保平大尉・峰善輝大尉・窪田晴吉飛曹長他、千歳2機:千田光夫一飛曹他、千代田3機:南義美少尉他
- ^ この様子は乗艦していた報道班員により録画されており、日本ニュース第232号「比島沖海戦」の中の1シーンとして上映されている
- ^ そもそも大淀に移乗したのがどういう理由によるものかも判断できない。航空機の攻撃によるものか、マリアナ沖海戦での大鳳や翔鶴のように潜水艦の奇襲攻撃をうけたためか、攻撃による損害ではなく何かしらの故障によるものなのか、文面に記述がなく、それ以前の電文が届いていてない受信者側にはこの一文だけでは状況を判断する事は難しい
- ^ 但し第1群はマケイン中将の判断で既にレイテに向けて急行していた
- ^ 現時点で小沢中将が掌握している艦艇は大淀・伊勢・日向・霜月の4隻
- ^ 当時大和通信士だった都竹卓郎は、小沢艦隊の囮作戦一応は図に当たったとしつつも、その一方で栗田艦隊が大規模な空襲を受け難戦を強いられたことも触れ、小沢艦隊の牽制行動に効果があったとは考えにくいと述懐している(PHP研究所 月刊歴史街道2015年1月号71pより)
- ^ 小沢艦隊からの連絡が届かなかった事もあるが、ハルゼー機動部隊だけでなく、キンゲイトの第7艦隊所属の護送空母からの空爆が25日も断続的に続いており、栗田艦隊側から見たら米機動部隊の脅威は完全には排除されていないとみられた
- ^ 小沢艦隊司令部を収容した軽巡洋艦大淀の戦闘詳報でもこの問題が触れられており、同詳報では連合艦隊司令部の杜撰な指導に対する批判もある一方で、小沢艦隊がハルゼー機動部隊に対する牽制、誘致に努めるべき時機や期間、すなわち、栗田艦隊に対して敵航空攻撃の脅威を、どの期間逸らして自隊に引き付けるのか?という観念を機動部隊側が欠いていたと記述し、小沢の指揮への批判を書いている(吉田昭彦「比島沖海戦における機動部隊本隊の牽制作戦」『波濤』1995年7月)(アジア歴史資料センター「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 軍艦大淀捷1号作戦戦闘詳報」40〜41p)
- ^ ただし各艦戦闘詳報や艦橋勤務員の手記に記録なし
- ^ 宇垣中将の『戦藻録』には「30機あまり発進したと見え」とあり、都竹も同様の感想を抱いていた。都竹は戦後に記録を見て本当の機数を知り、驚いたという
- ^ これはマリアナ沖海戦で榛名が被弾して速力が最大26-7ノット迄しか出なくなり、修理されずにレイテ沖海戦に臨んだため、僚艦金剛と速力に差がでていたため。この為榛名は同程度の速力である第一戦隊と行動を共にし、それよりも速力が出る金剛は別に行動するため独自に変針した
- ^ 戦後になってハルゼーはこのときは「動揺しなかった」と回想しているが、情報参謀としてハルゼーに仕えていたカール・ソンバーグは、報告を聞いたハルゼーは「顔面蒼白」で「ひどく打ちのめされた」様子であったと回想している。これは、ハルゼーが栗田艦隊に与えた損害を過大評価していたことを認識し、自分の決断に疑問を抱いていたからであると指摘している
- ^ これは、ハルゼーの第3艦隊はニミッツの指揮下なのに対して、キンケイドの第7艦隊はマッカーサーの指揮下という、アメリカ軍内のセクショナリズムも影響しており、マッカーサーも後年指揮系統の不統一について批判している(マッカーサー大戦回顧録p288)
- ^ この時ハルゼーは「なぜもっと早く言わなかったのか」と疑問に思ったが、実はこの無線は1番目の無線をハルゼーが受け取る前の7時25分にキンケイドから打電されたものであって、戦闘による無線量の激増で両艦隊間の交信が大混乱しており、無線が打電した順番には相手側に届かないという問題が生じていたからであった(イアン・トール『太平洋の試練 レイテから終戦まで 上』)
- ^ 元々暗号電文を作成する際、その前後には敵の暗号解読を混乱させるため、“詰め物(もしくは埋め草)”と呼ばれる意味のない文言を入れる決まりとなっていた。今回の通信文では本文の前に「七面鳥は水辺に急ぐ」後ろのに「全世界は知らんと欲す」の“詰め物”があり、受信側で取り除くことになっていた。またRRは、直前の重要な文章を間違った意味にとられないように強調するための“繰り返し”の表記である。だが通信員は「全世界は知らんと欲す」が詰め物かは判断できず、RRも文字化けの可能性があると考えてしまったため、司令部に送って判断を委ねたのだが、司令部ではそのままハルゼーの元に届けてしまっていた
- ^ ニュージャージー、アイオワ
- ^ 鳥海の被弾については、後方から射撃した金剛の砲弾が命中した誤射であったともいわれる。詳細は鳥海を参照
- ^ 集結のために必要な大和の針路の報告が遅れたのは、9時11分時点で大和自身が空襲を受けていて回避行動中であり、基準針路を定められる状況ではなかったため
- ^ 戦史叢書の表記(348p)に準じる。なお第六次はサマール沖海戦中の対空戦闘を指す
- ^ アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究成果では大和個別での戦果は護送空母ホワイト・プレインズに至近弾数発。右舷機関室が破壊。駆逐艦ジョンストンに主砲弾3発命中、副砲弾3発命中としている『The World Wonder'd: What Really Happened Off Samar』Robert Lundgren
- ^ 捷号作戦では敵情偵察は基地航空隊が行い、艦搭載の水上機は対潜警戒を行い、出撃後はサンホセの水上機基地に帰還してそこから作戦を継続するという方針だったため、この時点で各巡洋艦や戦艦の搭載機は大和以外は全て出払っており、その大和も固有の観測機1機と長門から移乗した観測機1機の計2機しか搭載していなかった。今回出撃したのは長門から移乗した観測機である。
- ^ なお、同機はその後北東海域を索敵するが敵を発見できず、引き続きレイテ湾内に向かって湾内を偵察し、12時50分に輸送船約40隻が在泊していることを報告、13時に栗田艦隊に届いたが、既に栗田艦隊は突入を諦め北上していた
- ^ このほかにも呉に在泊していた第6艦隊旗艦筑紫丸には、空母を含む大部隊が9時0分、ヤキ1カに近い地点ヤンメ55を南下中との偵察情報が入り、11時37分に配下の潜水艦宛に打電している。ただし都竹はこの情報が大和に届いたか記憶していない
- ^ KdMB機密第250732番電「kdmb敵艦上機の触接を受けつつあり地点ヘンホ41」
- ^ >KdMB機密第251107番電「大淀に移乗作戦を続行す」
- ^ 0732番電は「敵機に見つかった」という内容であり、それでハルゼー機動部隊が全軍で北上したと判断は出来ない。1107番電もどういう状況で旗艦を変更したのか記述がなく、瑞鶴がどういう状況になったかすら不明である。仮に瑞鶴が攻撃を受けたとしても、敵航空機なのか、水上艦なのか、潜水艦なのかもこの電文では判断できない。
- ^ 電文は「0830から1000まで敵機約100機の来襲を受ける。戦果撃墜10数機 被害秋月沈没、多摩落伍そのほか【損害あるも】おおむね【18ノット航行可能 瑞鶴通信不能】」であったが、このうち【】の部分が大和は傍受できず符字不明とされた
- ^ 藤波に救助されていた鳥海の乗組員も全員戦死した
- ^ 戦史叢書では1時40分の山之内機が報告した敵位置を「ヤリ3ス」と表記しているが、原本の「夜間索敵戦闘詳報 自昭和19年10月10日至昭和19年10月28日」21Pでは「ヤソ3ス」とあり、戦史叢書側の誤読と思われる
- ^ この時間帯、ハルゼー機動部隊はヤリ3ス地点の南西およそ10浬地点にいて北上していた
- ^ この日も司令部の連絡が不達であったりする通信障害が発生しており、第一次攻撃隊でもレガスピーとは別方面に進出するよう指示していた特第三攻撃隊が指示通りに編成されることもなく、第一次攻撃隊と一緒に出撃してしまったりしている
- ^ 特攻作戦については大西が第一航空艦隊司令長官になる以前より中央で研究されており、記述のように特攻作戦を最初に発令したのは大西だが、「生みの親」というには少し誤りがある
- ^ 例えば1943年6月から7月にかけて、たびたび侍従武官の城英一郎大佐が特攻隊の必要性を大西に訴えに来たが、その頃は賛意を与えず慎重であった。(栗原俊雄著『特攻-戦争と日本人』15-16頁)
- ^ 10月21日に大和隊隊長久納好孚中尉、23日には佐藤馨上飛曹機が未帰還となる。なお久納好孚中尉の未帰還に関しては同日にオーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリアに日本機が体当たりして艦長以下約30名の死傷者が出ており、これが久納機ではないかという説もある
- ^ この攻撃が大和隊か彗星隊かどちらだったのかについては意見が分かれている。米側の記録では突入したのは5機で、最初に突入した1機は対空砲火に撃墜されたが、その時搭載した爆弾が外れて空母の近くに着水して炸裂したという証言があり、零戦だけで構成され爆弾を搭載していない大和隊では起こりえない。また9時に出撃した同隊が11時過ぎになってようやく交戦しているのも時間がかかりすぎている。かといって彗星隊だとするにしては、2機しかいない同隊を5機と米側が数えているのは不自然である。むしろ大和隊、彗星隊が偶々同時攻撃になった可能性の方が高いかもしれない
- ^ この他にも駆逐艦曙、沖波、秋霜、初春、が11月13日までのマニラ湾への断続的な空襲の中で失われ、レイテ沖海戦後より始まった「多号作戦」に参加した艦艇も11月11日に駆逐艦島風、長波、浜波、若月が沈んでおり、レイテ沖海戦後もレイテ島の攻防戦の中で多くの艦艇が輸送作戦に関わり続け、損害をだしていった
- ^ 10月31日には更に撃沈・巡洋艦1隻、駆逐艦2隻。撃破・空母2隻、巡洋艦又は駆逐艦3隻を追加で発表している。
- ^ 戦後の関連書籍の中には栗田が同海戦後に海軍兵学校長に人事異動している点を指して、現場から遠ざける海軍側の遠回しの「左遷」と書くものもあるが、海軍兵学校長は海軍内でも重要なポストであり、海軍士官を養成するという重要な教育機関の代表職が左遷先であるという海軍は何処の国にも存在しない。歴代学校長も島村速雄、山下源太郎、鈴木貫太郎、永野修身、草鹿任一、井上成美などといった著名な提督が名を連ねており、海軍大学校でもエリートコースである甲種ではなく乙種(乙種は海軍兵学校卒業生ならだれでもなれる)出身でしかない栗田が就任するのは前例が少なく、左遷ではなく出世ととらえる方が妥当である(出世という点では乙種卒でしかない栗田が第二艦隊司令長官に抜擢されている時点で『異例の出世』であり、当人もその前職である第三戦隊司令でもって予備役になると思っていた)
- ^ 大海機密第271158番電及び官房機密第271947番電
- ^ なおレイテ沖海戦の直後、軍令部では、特攻機と護衛機を積んだ雲龍型航空母艦と駆逐艦で機動部隊を編成し、再びレイテ沖に殴りこむという「神武作戦」計画が企画されたが、実行されなかった
- ^ 戦艦榛名の戦闘詳報では「味方艦の電波が干渉しあって妨害される場合が多く、言われるような性能が安定して発揮できない」とある一方、戦艦金剛の戦闘詳報では「電測(レーダー)射撃は相当に有効。敵の電測射撃はわが方と大差ない」としている。戦艦大和でも、長距離で10m測距儀を上回る精度が記録されている
- ^ 内訳:ウェストバージニア:徹甲弾107発・高性能弾(榴弾)171発、メリーランド:徹甲弾192発・高性能弾445発、テネシー:徹甲弾327発・高性能弾262発、カリフォルニア:徹甲弾177発・高性能弾78発、ミシシッピ:徹甲弾189発・高性能弾543発、ペンシルベニア:徹甲弾360発・高性能弾14発
- ^ 斉射された砲弾が着弾した散布界内に目標全体を捉えてる状態を指す言葉。誘導装置もない当時の射撃は初弾を撃ってできた水柱と目標の位置を計測して修正し、散布界内に目標を捉えるまでこれを繰り返す。捉えた状態を「夾叉」と言い、以後はこの状態を維持しながら命中するまで射撃を繰り返す。当時は程度の差こそあれどの海軍もこういった砲戦術であり、レーダーを使った射撃というのも、当時は敵艦の位置をより正確に得る測的のために使われていて、照準などは日本と同様方位盤や光学照準器を使用していた。当然ながら夜戦の際は探照灯や照明弾が必要になる
- ^ 公算射撃は「双方の針路速度が維持されている」状態での撃ち合いが前提で、それが頻繁に替わると夾叉の状態が維持できない。空襲を受けながらの砲戦となると敵機の攻撃を受けると、射撃維持のために命中覚悟で回避しないか、射撃精度を落としてでも回避するかの2択となり、栗田艦隊側には大きなマイナス要素となる
- ^ 他にも重巡洋艦利根は、アメリカ護衛部隊や小型護衛駆逐艦を「レンジャー型空母」や「バルチモア級軽巡洋艦」と報告し、第十戦隊は利根と羽黒の砲撃による水柱を魚雷命中と判断して台湾沖航空戦に並ぶ誤認戦果を報告している
- ^ 残数の内訳は第一砲塔40発、第二砲塔0発、第三砲塔45発、第四砲塔0発、第五砲塔40発である
- ^ 更に砲弾もほぼ撃ち尽くしており、砲撃戦はほぼできない状態である
- ^ 「机上の空論だった戦艦大和のアウトレンジ戦法」では、日本海軍が30,000m以上の「遠大距離」での砲戦演習を1937年より開始したが、1941年には25,000mに戻した旨が述べられている。理由は散布界の収束問題や敵艦の測的から射撃、弾着観測までの一連のシークエンスを短縮する目処がつかなかったからである。また、「命中率3倍説はなぜ生まれたか」ではサマール沖海戦を事例に実戦では演習時より命中率が大幅に低下するとしている
- ^ 北村賢志も史実では起こらなかったような戦艦同士の遠距離砲戦が仮にあったとしても、実績から命中弾が出ることに期待出来ない旨主張している(北村賢志「戦艦大和の虚像」『虚構戦記研究読本』光人社 1998年)
- ^ 石橋孝夫もまた、戦例の少なさから、特定の状況を仮定しその中で勝利条件を提示している。モデルにはレイテ沖海戦も挙げられている。結論としては、遠距離砲戦は不確定要素が多く、搭載機による弾着観測が行えることが条件であるが、実際の大和は常に航空機の脅威に晒されながら作戦行動していた旨が説明されている(石橋孝夫「大和型、アイオワ級もし戦わば」『大和型戦艦』歴史群像太平洋戦史シリーズ)
- ^ 30,000mを超える砲戦となると、大和の46㎝砲でも弾着するまで50秒以上かかり、航空機による着弾観測ができな状態では、着弾の水柱で修正をしながら夾叉状態に持ち込む水上艦同士の砲撃戦では修正が困難になり、命中精度が落ちる。このため大和型も、長門型と同じ「30,000mから」の砲戦距離としていたが、実際は30,000mでも命中は難しいので25,000m辺りでの砲戦を想定していた
- ^ レイテ湾は南北130km、東西60kmに及ぶ巨大な湾であり、仮にオルテンドルフ艦隊を突破して湾に侵入したとしても、米軍の上陸地点を射程に捉えるまで更に2時間ほどを必要とする。周囲に敵空母を残したまま突入を継続するとこの間にも空襲を受けることになり、栗田艦隊は大損害を蒙ったと考えられる
- ^ 特に大和の幹部士官は第二艦隊司令部を大和に収容した際、艦橋に二つの司令部が入って手狭になったため、必要最低限だけ残して分散配置していたので艦橋には操艦上いなければならない航海長とその関係者(航海科通信科など)しか配置されていなかった
- ^ 宇垣自身の日誌「戦藻録」でもそのような記述はなく、むしろ輸送船団殲滅よりは艦隊決戦を目指した方がよいと艦隊司令部に進言したと海戦前に記述が見受けられる。
- ^ 旗艦愛宕の生存者救助を行った駆逐艦岸波と朝霜のうち、生存者を大和に移乗できたのは栗田らを救助した岸波だけで、朝霜は生存者を乗せたまま大破した高雄を護衛して撤退したため、朝霜に救助されていた司令部通信要員は合流できなかった
- ^ 福田幸弘「連合艦隊サイパン・レイテ海戦記」364p。機動部隊本隊発の機密241715番電のことで、栗田艦隊の金剛、矢矧には受電記録があり、栗田艦隊司令部(第一遊撃部隊司令部)も大幅な遅達ながら25日19時に受電の記録があるが、大和戦闘詳報には一切無い
- ^ 実際連合軍はハルゼー機動部隊以外に攻略部隊としてキンゲイト中将率いる第七艦隊がレイテ湾周辺に展開しており、その戦力は栗田艦隊を上回っていた
- ^ 史実では小沢艦隊の戦力を過大評価したハルゼーが全力で迎撃に向かった事と、ハルゼーが戦力の一部を防衛に残していると勘違いしたキンゲイトがスリガオ海峡から侵攻してくる西村部隊に対して戦力の大多数を差し向けた事で、栗田艦隊は難なくレイテ湾口近くまで到達できたが、これはあくまでも相手側の連係ミスが発生した事でできた偶発的な出来事であって、作戦前の段階でそういった偶然を当てにしてレイテ湾周辺に敵はいないと想定する事などありえない
- ^ 8月10日のマニラでの作戦説明会で、小柳少将が「ただし突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能」と言っているのはこのことを指している
- ^ 1YB機密第251150番電「0945ヤキ1カの敵機動部隊を攻撃されたし」
- ^ これ以外には、第一航空艦隊司令長官大西瀧次郎中将が貴下の各部隊に「ヤキ1カの敵機動部隊を攻撃せよ」と命じた記録などがある
- ^ 仮にヤキ1カ電が捏造であったのなら、捏造した情報を元に他部隊へ攻撃要請をしている事になり、作戦後に疑惑を向けられても反証する証拠もない状態となる。
- ^ 第二航空艦隊が発信した6FGB機密第251103番電「アパリ、ツゲガラオに着陸せる三航戦飛行機は直ちにレガスピーに躍進補給のうえ0940地点ウキ5ソ針路南の敵空母3隻を攻撃撃滅すべし 目下レイテ湾東方において彼我全軍決戦中」
- ^ 第六艦隊が発信した6F機密第251137番電での一節「0900地点ヤンメ55付近空母3南下中」この番電は先遣部隊総合情報として比島方面で行動中の貴下潜水艦に対して発信された敵情情報電
- ^ なお深井の当時の役職である大和副砲長の戦闘時の配置は第二艦橋の1階上の副砲射撃指揮所であり、栗田や都竹の配置である第一艦橋はその3階ほど上になる。当時大和の艦橋は栗田艦隊司令部と第一戦隊司令部が同居する事になって手狭となり、大和固有の幹部は艦長も含め必要最低限の者以外は別の配置に移動していた。必要最低限の者とは操艦上艦橋に居なければならない航海長とその部下、都竹のように通信関係で配置されている者(海軍では通信科は航海科の一部門となる)、石田恒夫主計長や伊藤敦夫飛行長のように司令部の業務も兼務していた者(石田は戦死した栗田副官の業務を兼務、伊藤は第一戦隊航空参謀を兼務)であり、それ以外のものは基本第一艦橋にはいない。反転の一連の経緯の頃、栗田艦隊は幾度となく空襲を受けていたり、誤認ではあったが敵影の目撃報告なども発生していた頃であり、そういった臨戦態勢の時に副砲の指揮を執らなければならない立場の副砲長が配置を外れて第一艦橋にいる事はありえない。なお、当時艦橋に実際に居た人物では石田や伊藤なども戦後に多くの証言や著書を残しているが、彼らの証言にも深井の言うような事実があったと証言しているものはない
- ^ 「歴史街道」発売後に発行された深井氏の著書では、短刀の話について深井氏の証言が変わっている。短刀は作戦前に小沢から直接貰ったのではなく、各艦艇の将校に配られたものという話に替わっており、テレビや講演で語っていた内容と大きく異なっている
- ^ フィリピンでの作戦打ち合わせで小柳参謀長が「好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能」と発言しているのは、これを指している
- ^ 実際にはハルゼー機動部隊(第3艦隊)以外に上陸支援をするキンケイドの第7艦隊がおり、その規模は栗田艦隊を凌駕している。
- ^ 論者の中にはこういった支援戦力を無視してでも突入をするべきだったというのもいるが、支援艦隊は全力で栗田艦隊阻止への行動に出るわけで艦隊に損害が出てしまう。そのリスクを無視してでも突入しろというのは、船団に接触する以前に全滅するほどの損害を受けるリスクを無視しており、前線指揮官として選べる選択とは言えないものである。
- ^ なお、「日本海軍の歴史で前線指揮官が勝手に作戦を中止した」という事例はレイテ沖海戦後の坊の岬沖海戦で第二艦隊司令長官伊藤整一が作戦中止を指示したのが唯一の事例とされており、レイテ沖海戦での栗田の行為は含まれないのが通例である。
- ^ 一例としてはマリアナ沖海戦時、敵は発見したものの大和型戦艦を主力とする日本艦隊を艦のサイズを見誤ってその戦力を過小に報告したことがある
- ^ 機動部隊本隊1145地点「ヌア二シ」攻撃隊全力発進 地点「フシ二カ」の敵機動部隊を攻撃す 当隊針路西速力20ノット 敵情に応じ機宜行動す
- ^ 前衛は南方に進出好機に乗じ残敵を攻撃撃滅すべし 本隊は1600頃まで西行飛行機を収容したるのち南東に向かい翌朝戦を続行す
- ^ 前衛は速やかに北方に避退せよ
- ^ 敵艦上機我に接触中 機動部隊本隊1645位置 地点「レヨ四ケ」
- ^ 機動部隊本隊前衛(日向、伊勢、初月、若月、秋月、霜月)今夜左により行動「ルソン」島東方海面の残敵を撃滅戦とす。24日1900地点「ヘワレ24」事後敵情に応じ機宣行動す。25日0600地点「ヘンモ55」に達す
- ^ この記録に関しては旗艦では「第一遊撃部隊戦闘詳報」「軍艦大和戦闘詳報」共に記述はないが、「第一戦隊戦闘詳報」には記述がある。しかし「第一戦隊戦闘詳報」は各電報を発信時刻しか記録していないため、この電報を何時受電したのか不明
- ^ 機動部隊本隊敵艦上機の蝕接を受けつつあり 地点「ヘンホ41」0713
- ^ 敵艦上機約80機来襲 ワレ之卜交戦中 地点ヘンニ13 0815
- ^ 瑞鶴魚雷命中1 人力操舵中 瑞鳳爆弾1命中 速力14節 ソノ他20節付近 航行差シ支エナシ
- ^ 大淀に移乗作戦を続行す 1107
- ^ 0830カラ1000マデ敵機約100機ノ来襲ヲ受ク 戦果撃墜10数機被害秋月沈没 多摩落伍 ソノ他損害アルモ概ネ18節航行可能 瑞鶴通信不能
- ^ 後述する当時の艦隊間の通信系統から考えて中継所自体に通信が届かず、周囲に居た伊勢の受信機が偶々発信された無電を直接傍受したのではないかと考えられる
- ^ 1例として小島は自書で、10月24日18時頃、ガンルームで食事をして通信室に戻ると聯合艦隊宛「反転報告」の暗号化を命じられ、十数分後に、艦橋の都竹中尉に呼ばれて上がってゆくと、栗田長官からじきじき、連合艦隊からの全軍突撃命令(18時13分発)は、「こちらの(18時発信の)報告をみて出されたものと思うか」と問われ、「そう思う」旨を答えたと記述している。これに対して都竹は「当時は全員が戦闘配置に就いている状態であり、少尉が悠長に平時と同じようにガンルームに行って食事をとるような事は有り得ず、戦闘配食が配られ持ち場で食事をとっていた。反転報告の電文も発信は16時であって18時ではない。聯合艦隊の「全軍突撃」命令の発信は18時13分だが大和への着信は18時55分だから、彼が長官の諮問を受けたと称する18時15〜20分頃は、「大和」では誰もその全軍突撃の電報の存在すら知らないはずであり、全く事実と反している。この話は自体が彼の捏造である」と反論している。
- ^ 小島の捏造説自体、当時の各部隊の行動と矛盾するのは前述の通り
- ^ 松田少将の第四航空戦隊の記録には再反転したと判断できる無電(23時55分着の1YB機密第242145電)の受電記録はある。しかしこの時第四航空戦隊は前衛部隊として小沢本隊と分離行動しているので、第四航空戦隊の記録をもって、小沢司令部も知っていた筈だと断じる事は出来ない。25日合流後、程なく米軍の空襲が始まったので、四航戦側が小沢司令部に確認した可能性も低い
- ^ 半藤は秦郁彦、横山恵一と『日本海軍 戦場の教訓』という鼎談本を出版しその中でも辛辣に批判をしている。
- ^ 前述の歴史群像太平洋戦史シリーズなどは1971年から大分経過してからの刊行である
- ^ 高木はその海軍士官人生の殆どを陸上勤務で過ごしていて現場経験は乏しかった。
- ^ 作戦遂行の際の編成で、作戦に合わせて各艦隊から戦隊や艦艇が派遣されて部隊を編制する。第一艦隊、第二艦隊といった艦隊区分での編成とは厳密には異なる
- ^ 清霜艦長、先任として隊を指揮する
- ^ 戦闘爆撃機型である零戦六二型の生産開始はレイテ沖海戦後の1945年2月からなので、この「爆装零戦」は零戦21型を改修して爆弾搭載能力を付与した型
- ^ 全機瑞鶴に収容
- ^ 瑞鳳、千歳、千代田に収容。内訳は瑞鳳(零戦8機、爆装零戦4機、天山5機)、千歳(零戦8機、爆装零戦4機、天山6機)、千代田(零戦8機、爆装零戦4機、九七式艦攻4機)
- ^ 多摩艦長。先任として隊を指揮する。なお作戦中の10/25に定例人事で少将に昇進している
- ^ 第三十一戦隊を以て編成
- ^ 第三十一戦隊司令官
- ^ 第三十一戦隊参謀
- ^ 第一遊撃戦隊に編成された第十戦隊を離れ、第三艦隊に残留した第四十一、第六十一駆逐隊をもって編成
- ^ 呂112が故障と練度不足のため出撃延期となり1隻のみの出撃
- ^ 第二十一駆逐隊はセブ島への航空機材などの輸送のため21日朝馬公から高雄へ出港し突入には不参加
- ^ 元々第一遊撃部隊と行動を共にしていたが、編成替えにより第二遊撃部隊の指揮下となる。「青葉」被雷のためマニラに回航され、旗艦を「鬼怒」に変更後、レイテ島オルモックへの兵員輸送を行う
- ^ 台湾沖航空戦で一時的に第三艦隊より第二航空艦隊に編入
- ^ 台湾沖航空戦で一時的に第三艦隊より第二航空艦隊に編入
- ^ 台湾沖航空戦で壊滅したため第二〇三航空隊から編入していた両飛行隊のみ参加
- ^ 但し10月20日の空襲で日本軍機の雷撃を受けて損傷、同じく損傷したオーストラリアらと共に21日には後退しており、海戦本戦には不参加
- ^ スリガオ海峡海戦時は右翼隊として第2群と共闘
- ^ 但し10月21日の空襲で日本軍の被弾機が体当たりを仕掛けて損傷、艦長らが戦死し座上していた指揮官のジョン・A・コリンズも負傷したため、同じく損傷したシカゴらと共に後退しており、海戦自体には不参加
- ^ なお作戦参加後の内地帰還時に戦艦金剛(11/21)、駆逐艦浦風(11/21)、重巡洋艦熊野(11/25)がアメリカ軍の攻撃により沈没。一部の艦艇は内地帰還前にマニラ湾に集結して多号作戦などに投入され、重巡洋艦那智(11/5)、駆逐艦島風(11/11)、若月(11/11)、長波(11/11)、浜波(11/11)、初春(11/13)、沖波(11/13)、秋霜(11/14)、曙(11/14)、桑(12/3)、岸波(12/4)、らが失われた。
- ^ 作中では最終的に日本海軍はレイテ湾突入を成功させてアメリカ陸海軍に大打撃を与えるが、結果的に大戦後の日本の南北分断を招く遠因となった。
出典
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- ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版)の最初の回答。
- ^ 小柳冨次著「栗田艦隊 レイテ沖海戦秘録」
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- ^ 光人社NF文庫 佐藤和正著「レイテ沖海戦」108p
- ^ 『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三。なお、マッカーサー、ニミッツの提出した両計画の意図、両者の見解などはそれぞれの回顧録に詳しい。
- ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』第11章。
- ^ 『駆逐艦「野分」物語』第七章 「ハルゼーの猛進」。ただし、ハワイ会談の日付については、他の多くの文献が指している日付とした。
- ^ ハワイ会談については他節で挙げたものの他『レイテ沖海戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ9)』 学習研究社 の谷光太郎の記述にもよる。
- ^ 『マッカーサー大戦回顧録[下]』
- ^ 1942年1月の第一次ワシントン会談(アルカディア)で設けられたもので、英米を中心とする連合軍の、日本風に表現すれば主に軍政レベルでの折衝を行なうための会議であり、統合参謀本部(書によっては統合参謀会議)などとは別である。英国幕僚長会議、米統合参謀本部はこの会議の下位に位置する
- ^ 児島襄 1974, p. 240.
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- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦』第三章 米軍、レイテ島攻略を繰り上げる。他にこの件について触れた文献は『太平洋戦史シリーズ レイテ沖海戦』マッカーサーの比島への道などがある。
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「Basically it was TOYODA's idea.」と回答している質疑がそれである。 - ^ 防衛研修所1972, p. 28.
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- ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第9画像「煙幕の為視認極めて困難なり」。「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)」第42画像「発射前後目標視認状況」
- ^ 戦後、栗田、小柳ともに戦略爆撃調査団に煙幕が非常に有効であったと陳述している。
- ^ バレット・ティルマン「サマール沖のまちぶせ」『第二次大戦のTBF/TBMアベンジャー』P42には魚雷発射管の誘爆を狙ったと記されている。
- ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第69画像「銃撃による被害は極めて大にして」
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- ^ トール 2022a, 電子版, 位置No.493
- ^ a b ボールドウィン 1967, p. 360.
- ^ ボールドウィン 1967, p. 361.
- ^ ボールドウィン 1967, p. 362.
- ^ ウォーナー 1982a, p. 189
- ^ ペレット 2014, p. 828.
- ^ ダグラス・マッカーサー 2014, p. 272
- ^ ダグラス・マッカーサー 2014, p. 273
- ^ ダグラス・マッカーサー 2014, p. 289
- ^ ダグラス・マッカーサー 2014, p. 288
- ^ James D. Hornfischer, "The Last Stand of the Tin Can Sailors", An unprecedented account of the U.S. Navy’s impossible victory: the Battle off Samar, October 25, 1944
- ^ ダグラス・マッカーサー 2014, p. 291
- ^ ニミッツ 1962, p. 334
- ^ 『レイテ沖海戦 下』P354など
- ^ 『日本海軍 戦場の教訓』P400
- ^ 『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P127
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第11章 サマール沖の砲煙 P171
- ^ モリソン『太平洋戦争アメリカ海軍作戦史』で邦訳され、『レイテ戦記』『やっぱり勝てない?太平洋戦争』、佐藤和正『レイテ沖海戦』など。弾量はスリガオ海峡での戦闘後のものである。『レイテ戦記』P260では日時について言及がある。
- ^ a b c d e 『やっぱり勝てない?太平洋戦争』
- ^ 大岡昇平『レイテ戦記 上巻』「九 海戦」内,中公文庫,P260
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十章P85
- ^ 佐藤和正も『レイテ沖海戦 下巻』P171で同様の立場を取っている
- ^ “ACTION IN BATTLE OF SURIGAO STRAITS 25 OCTOBER 1944 USS West Virginia”. 2014年2月2日閲覧。
- ^ Tully, Anthony P. (2009). Battle of Surigao Strait. Bloomington, Indiana: Indiana University Press. ISBN 978-0-253-35242-2.
- ^ “ACTION IN BATTLE OF SURIGAO STRAITS 25 OCTOBER 1944 USS West Virginia”. 2014年2月2日閲覧。
- ^ 例えば疲労については『栗田艦隊』P169、『日本海軍 戦場の教訓』P385、407等、立場を問わず半ば常識化して語られている。
- ^ 『レイテ戦記 上巻』P261-262等
- ^ 防衛研修所1971, p. 328.
- ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)」第24-25画像「0845、距離8000敵巡洋艦に魚雷4本発射」
- ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第35画像
- ^ 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』230頁(光人社、1999年)
- ^ 「軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)」第42画像
- ^ 燃料減少という記述は児島襄 1974中公文庫版P283など
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』P179-180
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』P260
- ^ 井川『軍艦「矢矧」海戦記』187頁、#巡洋艦戦記31頁
- ^ 『戦艦大和建造秘録』62頁
- ^ a b 『レイテ戦記 上巻』P262
- ^ 『レイテ沖海戦 下巻』P170に大岡と全く同じ表現あり。
- ^ 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊〈6〉―第三段作戦後期―』朝雲新聞社、1970年、pp.303-304
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上巻』第二章 旗艦武蔵を容認されず
- ^ 『やっぱり勝てない?太平洋戦争』など
- ^ エドウィン・P. ホイト『空母 ガムビアベイ』学習研究社
- ^ 『栗田艦隊』P160
- ^ 『敗因究明に主論をおく太平洋海戦史〈5〉マリアナ沖海戦、レイテ海戦、及び特攻攻撃並びに敗因の底にあるもの』
- ^ 池田清『海軍と日本』中公新書、1981年、P33
- ^ 小島清文著「栗田艦隊」
- ^ 深井俊之助「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」
- ^ 深井俊之助「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」212p〜220
- ^ 深井俊之助「私はその場にいた 戦艦大和副砲長が語る真実」pp.222-230
- ^ 大岡次郎, pp. 365–366.
- ^ 福田幸弘「連合艦隊サイパン・レイテ海戦記」354p
- ^ 大和から見たレイテ海戦
- ^ 大岡次郎, p. 379.
- ^ 大岡次郎, pp. 390–391.
- ^ PHP研究所「歴史街道」64p
- ^ 大岡次郎, p. 377.
- ^ 『戦艦大和 激闘の軌跡』p.104
- ^ 『悲劇の提督 南雲忠一中将 栗田健男中将』中央公論社
- ^ 小柳『栗田艦隊』P207
- ^ 児島襄 1974, p. 281
- ^ 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P122、『レイテ沖海戦 上』P93-97他 むしろこの話に触れない文献の方が少ない
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦 上』
- ^ 明治百年史叢書『戦藻録』394p
- ^ 例えば佐藤和正『レイテ沖海戦 下』P353の黛
- ^ 佐藤和正著「レイテ沖海戦」下巻286p
- ^ 戦闘詳報や小柳の本
- ^ 『日本海軍 戦場の教訓』
- ^ 小柳富次『栗田艦隊』P157で「戦後真相を知ってびっくりした」との記述
- ^ 『レイテ沖海戦 下』P351-352等、また小柳は護衛空母だと戦後に知ったと『栗田艦隊』で述べた。
- ^ a b 通信士官として艦隊勤務の経験があった吉田俊雄と共に書いた『全軍突撃 レイテ沖海戦』
- ^ a b 『日本海軍 戦場の教訓』
- ^ 『レイテ戦記 上』
- ^ 小島清文,1978年,1979年
- ^ 『戦史叢書 海軍捷号作戦(2)』
- ^ a b 左近允尚敏『栗田艦隊の反転』
- ^ 「昭和19年10月20日〜昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030036700 38-41P
- ^ なお、小島の活動については現在 中帰連 などで確認ができる
- ^ 機動部隊本隊「捷一号作戦戦闘詳報」87p-90p
- ^ 細谷四郎 1988, p. 288.
- ^ 細谷四郎 1988, pp. 291–292.
- ^ 防衛研修所1970b, pp. 303.
- ^ "「CQ Ham Radio」誌、JA2CNC、JA9LIN"
- ^ 艦船用の通信設備についての一般的な解説は『世界の艦船1989年2月号』「特集・艦隊通信」他に拠る。
- ^ 「捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)」第69画像「軍艦大和に於ける捷一号作戦通信戦訓」
- ^ 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』P126
- ^ 佐藤晃『帝国海軍が日本を破滅させた』
- ^ 『レイテ沖海戦 上』pp.93-97
- ^ 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ9』p.123
- ^ 児島襄 1974, p. 285
- ^ 外山三郎『図説 太平洋海戦史 3』
- ^ a b 『最後の帝国海軍』
- ^ a b 『レイテ沖海戦下巻』P286
- ^ 『レイテ沖海戦』
- ^ 歴史と人物/昭和56年5月号
- ^ 森本忠夫「レイテ沖"謎の反転"の真相」『潮』1986年9月P253-254
- ^ 外山三郎『図説 太平洋海戦史 3』P223
- ^ 佐藤和正『レイテ沖海戦下巻』P353にて「あの時はそれが正解だったし今でもそう信じている」と記載あり。
- ^ 小板橋孝策 1985, p. 216。戦後、著者と黛の対談より。
- ^ a b c 小板橋孝策 1985, p. 217
- ^ 小板橋孝策 1985, p. 218.
- ^ 岩佐二郎『戦艦「大和」レイテ沖の七日間』(光人社、2004)pp.160
- ^ 『栗田艦隊』の序文
- ^ 『太平洋戦争と十人の提督』他
- ^ 亀井宏『ミッドウェー戦記』p.18
- ^ 『レイテ戦記 上巻』P258
- ^ 『レイテ戦記上巻』P232
- ^ 『レイテ戦記上巻』P262-263
- ^ 佐藤亮一訳『第二次世界大戦 4』P.278~279
- ^ Triumph and Tragedy P.184
- ^ 佐藤亮一訳『第二次世界大戦 4』P.279
- ^ 『レイテ戦記 上巻』P200-203
- ^ 『魔性の歴史』P236、356[要文献特定詳細情報]
- ^ 『海上護衛戦』26 しびれた輸血管
- ^ 奥宮正武『提督と参謀』
- ^ 小板橋孝策 1985, p. 219.
- ^ 小板橋孝策 1985, p. 221.
- ^ 『栗田艦隊の反転』『なにわ会ニュース』92号
- ^ 『太平洋戦史シリーズ 9』P123で谷光太郎が米側専門家の指摘に同意する形で纏めた部分。『図説 太平洋海戦史』P221等
- ^ 大岡昇平『レイテ戦記 上巻』佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』『やっぱり勝てない?太平洋戦争』など。
- ^ 寺崎英成「昭和天皇独白録」 118頁
- ^ 伊藤正徳『連合艦隊の最後』昭和30年
- ^ a b 防衛研修所1972, p. 609.
- ^ 防衛研修所1972, p. 607-609.
- ^ 数は児島襄 1974, p. 247による
- ^ 指揮系統の2元問題については下記を参照
新見政一「23 沖縄上陸に至るまでの米国の太平洋戦争指導の概要」『第二次世界大戦戦争指導史』P507-508
佐藤和正『レイテ沖海戦 下巻』第十一章P158-159
『学研太平洋戦史シリーズ9 レイテ沖海戦』P81,84,P123 - ^ 外山三郎『太平洋海戦史 3』
- ^ 谷光太郎『アーネスト・キング』による
- ^ 『レイテ沖海戦 上』P158
- ^ World War II Database
- ^ 陸軍部隊は児島襄 1974, p. 249および『太平洋戦史シリーズ 9』P88等による。上陸地点は文献は多いが佐藤和正『レイテ沖海戦 上』P193など
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