海上護衛総司令部
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海上護衛総司令部(かいじょうごえいそうしれいぶ、旧字体: 海󠄀上護衞總司令部)とは大日本帝国海軍において太平洋戦争後期に通商護衛を司った部署である。設置は1943年11月15日、廃止は1945年8月25日。正式な呼称は「海上護衛総司令部」であったが、しばしば海上護衛総隊(かいじょうごえいそうたい、旧字体: 海󠄀上護衞總隊󠄁)とも呼ばれ、また海護総隊(かいごそうたい、旧字体: 海󠄀護總隊󠄁)とも略称された。
歴史
背景
1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦前、日本は対米開戦の場合には南方の資源に立脚した長期持久体制をとることを構想していた。しかし、こうした構想にもかかわらず、開戦前の日本海軍において、南方で獲得した資源を日本本土まで輸送するシーレーンを確保するための防衛戦略が検討されることはほとんどなかった。一方のアメリカ海軍は、日本と開戦した場合、海上封鎖によって日本のシーレーンを遮断し、継戦能力を奪うことを開戦前から決定していた。太平洋戦争開戦後も、緒戦の勝利とアメリカ海軍の準備不足によって海上交通に対する被害は軽微であったため、日本海軍がシーレーン防衛に関する十分な対策を打ち出すことはなかった。
しかし連合艦隊の作戦地域拡大で物動輸送が増加すると、その護衛任務が主作戦任務を重視する連合艦隊には重荷となり、連合艦隊から専門部隊編成の要望があったことから、護衛を専門とする部隊の編成が実現した。当初は予備兵力にも余裕がないため反対論が根強かったが、連合艦隊参謀藤井茂が『重要な輸送のたびに戦力を抜かれては成り立たない』と海軍内部を再三説き、1942年4月10日に連合艦隊指揮下に軍隊区分で第一・第二海上護衛隊が新設された。連合艦隊側からの兵力追加の意向もあり鎮守府、警備府などから戦力の引き抜きがあり、代わりに連合艦隊が外洋護衛を受け持つことになった[1]。第一海上護衛隊は内地からシンガポール間、第二海上護衛隊は内地からトラック間の航路の護衛を担当した。護衛戦力は旧式の駆逐艦や商船から改造した砲艦などが少数配備されていた。
同時期、陸軍からは前線輸送向けに輸送専用に設計された潜水艦(1942年9月)、資源輸送の防護用として英国のMACシップ類似のTL型油槽船に全通飛行甲板を設けた簡易な護衛空母の建造(1943年)を提案されているが、海軍は前者は潜水艦は艦隊攻撃に専念させたい事、後者は陸上基地からの直掩機で用が足りる事を理由として、当初はいずれの提案にも反対した。前者は結局陸軍が三式潜航輸送艇(まるゆ)として単独で開発・生産を行う事となり、海軍で同様の輸送潜水艦の生産が本格化するのは陸軍暁部隊のまるゆ隊の活動開始より1年以上後になってからであった。後者についてはミッドウェー海戦以降急速に低下した連合艦隊の空母戦力の補助として、陸軍の配当船より高速な油槽船を配当される事を条件に最終的に特TL型の改装に同意したものの、就役はやはり1945年の終戦間際であった。
1943年(昭和18年)ごろからアメリカ海軍の日本に対する通商破壊作戦が本格化して日本の海上交通の損害は激増した。海上交通が被った大きな損害は南方からの日本本土への資源輸送を大きく低下させ、作戦部隊への補給、日本国内の工業生産力や、国民生活にも重大な影響を及ぼした。
設立
海上交通確保の動きが高まっていき、1943年6月25日兵備局第3課長大石保らの推進で海軍運輸本部、運輸部が設置される[2]。そして1943年11月1日海上護衛総司令部が創設された。 1943年12月15日第901海軍航空隊編入。また特設空母4隻の編入も決定された[3]。しかし所属する護衛用の艦船(特に駆逐艦・海防艦)には二線級のものが多かった。
海上護衛総司令部は一定海域に安全航路を設定し防備を集中して戦力不足を補う「航路帯構想」を進めた。1943年11月司令長官及川古志郎の指示で実行され、嶋田繁太郎海軍大臣や永野修身軍令部総長とも話し合った結果まとめられた。作戦参謀大井篤によれば「潜水艦阻止帯を作り安全海域とする。ここで自由航行し積極的に稼行率を発揮する。これらの島や陸地を連ねる機雷敷設線を作る。深いところは付近に陸上見張り所を設ける。電探、水中聴音装置で監視し常時哨戒する」構想だったという。1943年12月中頃から東シナ海方面で実施された[4]。艦艇不足を大規模な機雷堰を作ることで補う事を提案し、対ソ連戦を想定して二万基は備蓄しておかなければならない、実効果があまり期待できない、性能上耐久力がないという軍令部の反対を押し切って、1944年1月から1945年2月にかけて機雷堰に力を入れたが、生産力の不足で十分な数の機雷を揃える事はできなかった[5]。
しかも、これらの不十分且つ安易な機雷帯敷設は連合軍に逆に利用され、アメリカ太平洋艦隊潜水艦部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将は通信傍受で「敵の機雷原に関連する情報が完璧だったため、敵が敷設した防御機雷原は敵よりもむしろわが軍に役立った。日本の艦船は狭い水路を航行せねばならず、発見、撃沈が容易になった」という[6]。逆に連合軍はB-24やB-29によりこうした機雷堰の穴を縫うように徹底した機雷敷設を行い、1945年の終戦間際には日本の船舶が南方航路はおろか、日本近海に出航する事さえ自殺行為と言われるほどの状況を作り上げた。
活動
1944年8月18日ルソン島北西岸で空母大鷹と駆逐艦1隻、甲型海防艦3隻で護衛するヒ71船団が襲われ、タンカーなどの輸送船とともに大鷹もなすすべなく潜水艦に撃沈された。翌日には甲型海防艦も3隻とも撃沈された。8月25日には空母雲鷹、9月17日神鷹も撃沈された。
その後も輸送船団の被害は増え続け1944年10月をピークにその後は輸送する船がなくなった[7]。
1945年(昭和20年)になって、西内海方面警護のために第7艦隊が編成された。
1945年3月末以降、石油や希少金属は一切、内地には届かなくなった。開戦前には世界第3位、600万トンの輸送船を保有していた日本に終戦時残されていた輸送船は、わずかに30万トンであった。
総括
海上護衛戦の失敗の要因として、護衛用艦艇の絶対数の不足により大規模な護送船団を編成することができなかったことも被害を増加させる要因の1つとされる。しかし、アメリカ太平洋艦隊潜水艦部隊司令官チャールズ・A・ロックウッド中将は日本の輸送船団が定期的に発信する通信を傍受することで行動、状況、位置が全て手に入ったことをあげ、「潜水艦作戦の成功に極めて重要な役割を果たしたと断言できる」「これらの情報がなければはるかに多数の潜水艦がなければ広大な太平洋をカバーできなかった」と指摘している[6]。また海上護衛を指導する日本の幕僚が広大な太平洋で幸運や好判断だけで撃沈されていると考え、通信情報なしにそのような撃沈結果を出すにはアメリカの資源でもまかなえないほどの潜水艦が必要であるという計算をしなかったことは信じられないという指摘もある[8]。そもそも、日本海軍の潜水艦に対する認識は艦隊決戦に偏重したものであり、極めて長大な航続力や酸素魚雷など優位面はあったものの、通商破壊戦術の研究は不十分でそれに対抗する対潜水艦戦闘の備えも未熟なものとならざるを得なかった。アメリカ太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ元帥は、日本海軍の潜水艦の運用方法について「古今東西の戦争史において、主要な兵器がその真の潜在威力を把握理解されずに使用されたという希有の例を求めるとすれば、それはまさに第二次大戦における日本潜水艦の場合であろう」とまで断じている[9]。
また、特設空母の被害が集中した1944年当時、連合軍は低出力の油圧カタパルト装備の護衛空母の運用法を洗練させる事で、ドイツ海軍のUボートによる通商破壊(群狼作戦)をほぼ封じ込めていたが、海上護衛総司令部所属の特設空母はカタパルトやRATOといった緊急発進手段を持たず、運用上の研鑽も特に行われていなかった事から、ドイツの群狼作戦を模倣したアメリカ海軍のウルフ・パック戦術にはほぼ打つ手が無く、船速20kt級の比較的優速の優良船舶ばかりで構成されたヒ船団においても、ヒ74船団で潜水艦の雷撃で喪失した雲鷹が、その戦闘詳報において『空母ガ船団ト同速力ニテ運動スルハ最モ不可ナリ』と明言し、(連合艦隊と比較した場合)低速の輸送船団に空母を同行させる編成を抜本的に見直すよう提言する[10]有様であった。前述の特TL型の生産配備も遅々として進まず、それ以前より海軍が研究を進めていたCAMシップ類似の火薬式カタパルト搭載の給油艦速吸も、殆ど何の戦果も挙げられないままヒ71船団にて大鷹と共に撃沈されている。
連合軍の戦時量産型の護衛駆逐艦、フリゲート、コルベットにそれぞれ相当する海上護衛総司令部付きの松型駆逐艦、丙型海防艦、第二八号型駆潜艇なども、連合軍のヘッジホッグやマウストラップのような前投型の対潜迫撃砲を持たず、第一次世界大戦の対無制限潜水艦作戦と同水準の爆雷に頼る戦術を採らざるを得なかった。電波探信儀はおろか、水中聴音機の性能も不十分で、「潜望鏡を長時間上げているだけでも命取りになる」とまで言われた連合軍の護衛水上艦艇の探知水準[11]には遠く及ばなかった。電探を始めとする電子装備の性能不足や不備は、護衛空母の不足以上に対空戦闘に深刻な影響を及ぼし、連合軍がレーダーピケット艦と近接信管の併用で、寡兵の艦隊や船団でも日本海軍の特別攻撃隊の攻撃を効果的に阻んだのとは対照的に、日本海軍の護衛水上艦艇は航空攻撃に一方的に損害を受け続けて終戦を迎えている。
陸軍の護衛空母建造案を一蹴してまで主張した陸上機による護衛・監視体制も決して十分とは言えず、東海のような対潜哨戒機の導入は1945年に入ってからであった。日本海軍の哨戒機の開発体系は、戦艦・巡洋艦の火薬式カタパルトから発進する水上偵察機に完全に依存したものとなっており、彩雲のような高速偵察機も専ら陸上での運用が主体で、艦上偵察機としての運用は満足には行われなかった。海軍、陸軍共に航空監視体制の不備を民間漁船の徴用による特設監視艇の大量配備で賄う有様で、その結果として静岡県焼津港の徴用船のように、所属漁船の8割以上が戦没する悲劇的な事例を生む結果ともなった。そもそも、輸送船団が陸上基地へ直掩を依頼する際の通信は、しばしば逆探知により船団の位置を連合軍側に暴露する要因となった。連合軍の護送船団が大西洋戦線で徹底した無線封鎖と護衛空母による自律的な航空支援でUボートに対抗したのとは対照的に、日本の輸送船団に所属する民間人の船長は、当時海軍が義務付けていた毎日8時及び20時の定時連絡及び、正午の位置報告規定を遵守しており、少なくとも1943年の時点で日本の商船暗号(海軍暗号S)は解読されていたとされる[12]事も相まって、前述のロックウッド中将のみならず、当時アメリカ海軍の潜水艦隊を率いる幕僚の一人であったエドウィン・レイトン少将をして、「われわれは1943年の初め以降、彼らのおもな海軍作戦暗号に食い入ることができた。これには日本の商船が使う四ケタの暗号も含まれていた。(中略)この暗号を読むことによって、われわれは日本の商船隊の進路を、それらの毎日正午の位置の報告から予測できた。商船の船長たちは毎日8時と20時に規則正しく報告を送信した。敵の商船隊の向かう位置を正確に知る能力は、われわれの潜水艦戦を成功させるうえで重要な要素となり、1944年末までに、分散した大日本帝国の海の生命線を効果的に分断できた。」と言わしめた[13]。
海上護衛司令長官・参謀長
海上護衛司令長官
- 及川古志郎 大将:1943年(昭和18年)11月15日 - 1944年(昭和19年)8月2日[14]
- (兼)野村直邦 大将:1944年8月2日[14] - 1944年9月15日[15] (本職:横須賀鎮守府司令長官)
- 野村直邦 大将:1944年9月15日[15] - 1945年(昭和20年)5月1日[16]
- (兼)豊田副武 大将:1945年5月1日[16] - 1945年5月29日[17] (本職:海軍総司令長官)
- (兼)小沢治三郎 中将:1945年5月29日[17] - 1945年8月25日[18] (本職:海軍総司令長官)
海上護衛参謀長
- 島本久五郎 少将:1943年11月15日[19] - 1944年2月23日[20]
- 岸福治 中将:1944年2月23日[20] - 1944年11月4日[21]、以後1944年12月11日まで参謀長を置かず。
- 西尾秀彦 中将:1944年12月11日[22] - 1945年8月25日[18]
隷下部隊
1943年11月15日 新設時
戦時編制上の序列[23]
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兵力部署(軍隊区分)上の序列[24]
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1944年4月1日 戦時編制制度改定後の編制
- 直属:第18戦隊
- 第1海上護衛隊
- 特設巡洋艦:華山丸、北京丸、長寿山丸
- 駆逐艦:汐風、帆風、朝風、呉竹、若竹、刈萱、朝顔
- 海防艦:松輪、佐渡、択捉、対馬、占守、淡路、倉橋、第9号海防艦、第8号海防艦、第10号海防艦
- 水雷艇:真鶴、友鶴
- 第2海上護衛隊
- 駆逐艦:朝凪
- 海防艦:隠岐、福江、平戸、天草、御蔵、能美、第2、3号海防艦
- 水雷艇:鵯、鴻
- 特設砲艦:長運丸
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制
- 直属:第18戦隊:常磐、高栄丸、西貢丸、新興丸
- 大鷹、雲鷹、海鷹、神鷹
- 香椎
- 第453海軍航空隊
- 第901海軍航空隊
- 第931海軍航空隊
- 第1海上護衛隊
- 第1護衛船団司令部
- 第2護衛船団司令部
- 第3護衛船団司令部
- 第4護衛船団司令部
- 第5護衛船団司令部
- 第6護衛船団司令部
- 第7護衛船団司令部
- 第8護衛船団司令部
1945年3月1日 菊水作戦直前の編制
1945年6月1日 最終時の編制
- 直属:第901海軍航空隊
- 第1護衛艦隊
- 第102戦隊
- 第103戦隊
脚注
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p112-114
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p202
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p308-309
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p342
- ^ 戦史叢書46海上護衛戦p343、385
- ^ a b ジョン・ウィンストン『米国諜報文書ウルトラin the パシフィック』光人社p266-267
- ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期p583-584
- ^ ジョン・ウィンストン『米国諜報文書ウルトラin the パシフィック』光人社p274
- ^ 『日本海軍潜水艦物語』(鳥巣建之助著、光人社NF文庫)97-98頁
- ^ C08030583700 『昭和19年4月1日~昭和19年9月17日 軍艦雲鷹戦時日誌(3)』。pp.49-51『七.(一)戦訓』、アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- ^ 「第二次世界大戦影の主役」 (“Engineers of Victory”) Paul Kennedy p. 85
- ^ 「太平洋暗号戦史」J・W・ホルムズ、ダイヤモンド社、1980年、237頁
- ^ 「太平洋戦争 暗号作戦―アメリカ太平洋艦隊情報参謀の証言〈下〉」エドウィン・レイトン、1985年、TBSブリタニカ、315-316頁。
- ^ a b 「昭和19年8月9日付 海軍辞令公報 甲第1558号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100500
- ^ a b 「昭和19年9月19日付 海軍辞令公報 甲 第1597号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900
- ^ a b 「昭和20年5月14日付 海軍辞令公報 甲第1799号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104800
- ^ a b 「昭和20年6月12日付 海軍辞令公報 甲第1825号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072105200
- ^ a b 「昭和20年9月13日付 海軍辞令公報 甲第1911号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107400
- ^ 「昭和18年11月17日付 海軍辞令公報(部内限)第1263号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400
- ^ a b 「昭和19年2月23日付 海軍辞令公報(部内限)第1337号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095900
- ^ 「昭和19年11月8日付 海軍辞令公報 甲第1638号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800
- ^ 「昭和19年12月14日付 海軍辞令公報 甲第1668号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300
- ^ 『日本海軍編制事典』、p. 385。
- ^ 海上護衛総司令部戦時日誌(昭和18年11月15日-30日)。
参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室(現在の防衛研究所戦史部の前身)編『戦史叢書 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年。
- 大井篤『海上護衛戦』角川文庫、2014年。ISBN 9784041015988,(著者は元海上護衛総司令部参謀で最終階級は大佐)
- 大内健二『輸送船入門-日英戦時輸送船ロジスティックスの戦い』光人社NF文庫、2003年。
- 大内健二『商船戦記-世界の戦時商船23の戦い』光人社NF文庫、2004年。
- 大内健二『戦時商船隊-輸送という多大な功績』光人社NF文庫、2005年。
- 大内健二『戦う民間船-知られざる勇気と忍耐の記録』光人社NF文庫、2006年。
- 大内健二『悲劇の輸送船-言語道断の戦時輸送の実態』光人社NF文庫、2007年。
- NHK取材班編『太平洋戦争 日本の敗因〈1〉日米開戦勝算なし』角川文庫、1995年。
- 坂元正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』 芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
関連項目
海上護衛総隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:01 UTC 版)
神鷹竣工と同日(12月15日)、日本海軍はシーレーン防衛飛行隊として第九〇一海軍航空隊(司令上田俊二中佐)を編成した。また同日附で大鷹型空母3隻(大鷹、雲鷹、海鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入。12月20日附で神鷹も海上護衛総司令部部隊に編入された。 1944年(昭和19年)1月8日、空母2隻(神鷹、海鷹)、吹雪型駆逐艦3隻(電、響、薄雲)はシンガポールに向け呉を出発したが、神鷹の機関故障により佐伯市(大分県)に仮泊した。神鷹は呉に回航され、シンガポールには3隻(海鷹、電、響)のみが向かった。連合艦隊は神鷹と護衛2隻(吹雪型駆逐艦〈薄雲〉、夕雲型駆逐艦〈玉波〉)に輸送任務を命じた。1月19日、神鷹は徳山沖で試運転を行うが、21日に呉へ回航された。結局、薄雲と玉波も別任務に投入されている。 2月1日、護衛空母の飛行機隊の訓練・整備を担当する部隊として、第九三一海軍航空隊(司令大塚秀治中佐)が編成された。2月11日、神鷹の修理工事完了。3月以降、修理・訓練を終えた大鷹型空母各艦は、順次南西方面航路の護衛に投入された。3月25日、呉練習戦隊に所属していた香取型練習巡洋艦2隻(鹿島、香椎)より香椎が海上護衛総司令部部隊に編入された。神鷹は6月29日に第九三一海軍航空隊の九七艦攻14機を搭載。瀬戸内海で着艦訓練を実施(1機を事故で喪失)。7月6日附で、第一海上護衛司令官の作戦指揮下に入った。 その後、神鷹はシンガポール航路の石油船団であるヒ船団の護衛に従事した。最初の護衛航海は、1944年(昭和19年)7月14日に門司出航のヒ69船団(輸送艦船14隻)だった。同行する空母3隻(大鷹、海鷹、神鷹)のうち対潜哨戒機を搭載していたのは神鷹のみである(大鷹、海鷹は航空機輸送任務。神鷹も局地戦闘機雷電10機を輸送)。旗艦は練習巡洋艦香椎(指揮官、第五護衛船団司令官吉富説三少将)、護衛部隊は6隻(香椎、神鷹、千振、佐渡、第七号海防艦、第十七号海防艦)。7月18日、第十七号海防艦が米潜水艦タイルフィッシュ (USS Tilefish, SS-307) の雷撃で中破。同艦は高雄市(台湾)に回航された。他に被害はなく、20日マニラ(フィリピン)着。ここで輸送用航空機を陸揚げした大鷹と海鷹はヒ69船団から分離(それぞれ別の船団に合流して内地へ帰投)。ヒ69船団は海防艦2隻(第13号、第19号)を加えて25日出港、31日にシンガポールへ到着した。航海中の7月16日午後、神鷹の搭載機が敵潜水艦を発見し護衛艦と共同撃沈したとの報告があるが、対応する米潜水艦はいない。 8月2日、南西方面艦隊は損傷修理のため内地に帰投させる予定の軽巡洋艦北上(マニラ停泊中)をヒ70船団に同航させたいと申し入れた。第五護衛船団司令官は台湾海峡を通過すると通告する。そこで加瀬三郎北上艦長は、同艦をヒ70船団に途中合流させる旨を報告した。8月4日(8月5日)、ヒ70船団は護衛艦(練習巡洋艦〈香椎〉、空母〈神鷹〉、秋月型駆逐艦〈霜月〉、海防艦〈千振、佐渡、第13号、第19号〉)とタンカー8隻でシンガポールを出発。途中でマニラから来た軽巡北上が船団に加わる。8月12日、ヒ70船団の海防艦2隻(佐渡、13号)と神鷹の搭載機が米潜水艦撃沈を報告しているが、対応する艦は存在しなかった。佐渡はヒ70船団から分離後、馬公市でヒ71船団に合流した。8月15日、神鷹以下ヒ70船団は門司へ戻った。神鷹は呉へ、北上は佐世保へ、霜月は横須賀へ、それぞれ回航された。 8月18日、ヒ71船団を護衛していた空母大鷹がアメリカ潜水艦の雷撃により撃沈された。神鷹と香椎が呉海軍工廠で修理・整備中の8月20日、日本海軍は旧第三水雷戦隊の戦力を基幹として、対潜掃蕩を主任務とする第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将)を編成、連合艦隊に編入した。従来の第三水雷戦隊司令部(司令官中川浩少将)はサイパン島の戦いで全滅していたのである。整備を終えた神鷹も第三十一戦隊と行動を共にする。 9月上旬、神鷹の整備は終了。神鷹は第八護衛船団司令官佐藤勉少将を指揮官とするヒ75船団に加わる。編成は、護衛部隊(空母〈神鷹〉、第30駆逐隊〈夕月、卯月〉、海防艦3隻〈三宅、満珠、干珠〉)、加入船舶(秋津洲、西貢丸、浅間丸、雄鳳丸、良栄丸、日栄丸、万栄丸、あまと丸、東邦丸、せりあ丸)。9月8日、ヒ75船団はシンガポールを目指して日本本土(門司)を出撃した。 9月11日午前9時、駆逐艦夕月と神鷹搭載機がアメリカ潜水艦撃沈を報告したが、対応艦はなかった。また神鷹搭載機が着艦に失敗して海中に転落、搭乗員は三宅に救助された。9月12日夕刻に浅間丸は台湾基隆市へ向かい、残るヒ75船団は9月13日に高雄市へ到着した。9月14日、護衛艦3隻(第十八号海防艦、水雷艇鵯、第28号掃海艇)と油槽船3隻(富士山丸、黒潮丸、大邦丸)を加えて出港する。9月17日、水上機母艦秋津洲と特設巡洋艦西貢丸、30駆司令澤村成二大佐指揮下の第30駆逐隊(夕月、卯月)はヒ75船団から分離してフィリピンマニラ港へ向かうが、このあと西貢丸は米潜水艦に撃沈され、秋津洲はコロン島(コロン湾)で空襲を受け撃沈された。 9月22日、ヒ75船団はシンガポールに到着。シンガポール停泊中、神鷹搭載の九七式艦上攻撃機はマラッカ海峡やペナン沖で対潜掃蕩作戦を実施したが、戦果はなかった。 続いて神鷹はシンガポール発のヒ76船団を護衛する。護衛艦(神鷹、倉橋、三宅、干珠、満珠、二八号、鵯)、加入船舶(常北丸、黒潮丸、東邦丸、冨山丸、タラカン丸、日栄丸、良栄丸、君川丸、せりあ丸)。10月2日(3日とも)、ヒ76船団はシンガポールを出撃。途中、元特設水上機母艦君川丸がアメリカ潜水艦ベクーナの雷撃で損傷した。沖縄空襲(十・十空襲)や台湾沖航空戦を避けるため10月11日より三亜港(海南島)に避退・待機。15日(16日)に出発するが、アメリカ軍機動部隊のフィリピン空襲を受けて海南島に引き返した。10月18日、あらためて海南島を出港。一部部隊(倉橋、二八号、日栄丸、良栄丸)等はリンガ泊地に在泊していた第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、旗艦愛宕)の命令により船団から分離、三亜港にとどめられた。タンカー2隻(日栄丸〔コロン湾着〕、良栄丸〔馬公市着〕)はレイテ湾へ向かう第一遊撃部隊(栗田艦隊)や第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官、旗艦那智)に燃料補給を実施した。10月22日、台湾海峡南岸でB-24爆撃機の触接を受け神鷹は船団から分離して先行、残る船団(帝北丸、新東邦丸、黒潮丸)等は馬公市に退避した。24日六連(山口県)を経て25日佐伯市(九州大分県)に到着した。搭載14機のうち、航海中に3機を喪失している。神鷹は10月26日から11月6日まで呉海軍工廠で修理を実施した。 詳細は「ヒ81船団」を参照 1944年(昭和19年)11月中旬、神鷹はマニラ行きの軍隊輸送船(第23師団)と、シンガポール行きのタンカーで編成されたヒ81船団の護衛任務に従事する。船団指揮官は第八護衛船団司令官佐藤勉少将。ヒ81船団は、護衛艦艇(海防艦〈對馬、択捉、昭南、久米、大東、第九号、第六一号〉、空母〈神鷹〉、松型駆逐艦〈樫〉)、加入船(聖川丸〔旗艦〕、摩耶山丸、吉備洋丸、あきつ丸、神州丸、タンカー〈音羽山丸、東亜丸、みりい丸、ありた丸、橋立丸〉)によって編成されていた。当事の神鷹乗組員定員は948名で、便乗者推定約1200名が乗艦した。日本軍(大本営、日本陸軍)はノモンハン事件で敢闘した第23師団に大きな期待を寄せており、マニラ到着後は直ちにレイテ島地上戦に投入予定であった。 1944年(昭和19年)11月13日、ヒ81船団は門司を出撃した。神鷹は船団最後尾につき、駆逐艦樫が直衛についた。大井篤によれば、石井少将(神鷹艦長)は僚艦(大鷹、雲鷹)の仇を討ちに行くと意気込んでいたという。九州の伊万里湾から東シナ海を横断し、中国東岸の舟山列島の経由でマニラ・シンガポール方面へ向かった。ところが、対馬海峡付近でアメリカ軍の潜水艦群に完全に探知されてしまった。11月15日、五島列島西の海上で陸軍特殊船あきつ丸(戦史叢書表記では秋津丸。四式肉薄攻撃艇約100隻積載)がアメリカ潜水艦クイーンフィッシュの雷撃で撃沈された。沈没地点.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度17分 東経128度11分 / 北緯33.283度 東経128.183度 / 33.283; 128.183。戦死者2300名以上。このため船団は危険を感じ途中で針路を変え、巨済島や済州島の島影に避泊しながら舟山列島を目指し航行を続けた。だが再びアメリカ軍の大型機に遭遇、通報された。神鷹は高角砲射撃を行うが命中しなかった。 11月17日18時12分、陸軍特殊船摩耶山丸(9433トン)が北緯32度17分 東経124度45分 / 北緯32.283度 東経124.750度 / 32.283; 124.750地点で、アメリカ潜水艦ピクーダの雷撃に遭い沈没した。戦死者2000名以上に加え、第23師団の司令部要員多数が戦死、師団司令部は機能を喪失した。当事、夜間となり神鷹搭載の九七艦攻は着艦を余儀なくされていた。同日23時、船団より神鷹に「右45度、怪シキ黒影見ユ」の連絡があり、神鷹は樫に「45度、敵潜水艦ラシキモノ見ユ、掃討セヨ」を発信した。ところが23時5分、アメリカ潜水艦スペードフィッシュが発射した魚雷6本のうち4本が神鷹の右舷に命中した。この魚雷の爆発によって航空機用燃料槽が爆発、大量のガソリンの爆発により大火災が発生。被雷から約10分後、神鷹の石井艦長は総員退去を命令した。退艦命令発令から約20分後、神鷹は艦尾から沈没した。沈没地点記録北緯32度59分 東経123度18分 / 北緯32.983度 東経123.300度 / 32.983; 123.300。もしくは北緯33度02分 東経123度38分 / 北緯33.033度 東経123.633度 / 33.033; 123.633。神鷹の生存者は61名、戦死認定は石井少将(中将へ進級)以下1165名であった。あきつ丸、摩耶山丸、神鷹の沈没により第二十三師団はフィリピン地上戦投入前に大損害を受け、その後のレイテ島地上戦に多大な影響を与えた。 1945年(昭和20年)1月10日、神鷹は大鷹型航空母艦、帝国軍艦籍籍のそれぞれから除籍された。。
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