沈没地点
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沈没地点は複数の説が存在していた。 副長の加藤大佐が退艦時に記載したもので、戦闘詳報に採用されている東経122度32分、北緯13度7分で、この地点の水深は800mである。戦後、アメリカ海軍は海底の武蔵を探深機で捜索したが、発見できなかった。 駆逐艦清霜が記録した、東経122度41.5分、北緯12度48分。だが、清霜の報告位置を元にした戦後の水中探査でも、武蔵は発見されなかった。ただし、清霜の砲術長は同艦の航跡自画器は故障していたので、あくまで推測でしかないことを述べている。 武蔵ドキュメンタリーを製作した手塚正己がシブヤン島マグディワク町に取材に赴き、町の北方沖合い5km、水深50mに武蔵が沈んでいるという地元漁師の証言を紹介している。2015年4月に現地で洋上慰霊祭が開催されたときにも、現地の責任者の将軍から同様の話が聴取されていた。 武蔵の生存者で構成された「軍艦武蔵会」が昭和50年に発行した「嗚呼 戦艦武蔵」に掲載されている対空戦闘航跡図を元に、古賀繁一が著書に記載した沈没位置。結果的に、この古賀繁一が提唱した沈没位置が最も正確であった。 沈没地点とされる場所を調査しても武蔵が発見されないことから、「沈んだ時点でも武蔵の艦腹には、なお未浸水の頑丈な防水区画が沢山あって、それらが艦に浮力を与えて海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8-12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのでは」という噂話も存在した。武蔵自体の航海記録は、艦橋に爆弾が直撃して第一艦橋に火炎が吹き込んだために、失われている。 2015年3月2日、マイクロソフト社の共同創業者で、第二次大戦中の軍用機コレクターでもあるポール・アレンの調査チームが武蔵をシブヤン海の水深1000mの地点で発見し、翌日に公式発表した。旧日本海軍史研究家で、大和ミュージアムの戸高一成館長は「艦首の菊花紋章や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違いない」と話した。また、日米複数の専門家が武蔵だと断定した。調査には戦艦フッドの探索にも使用されたアレン私有の海洋調査船オクトパス(全長441フィート)が使用された。武蔵の船体撮影は海底8843フィートまで潜水できる遠隔操作の探査機により行われた。調査は資料収集や海底の地形調査から始められ、実際の船体発見までは8年の年月が必要であった。シブヤン海の地形は複雑であり、いくつかの海底火山もあったが、それらの山頂部は調査区域が除外された。オクトパスからのマルチビーム海底スキャンによって、沈没地点の候補地は狭く絞られた。2015年2月より実際の潜水探査が開始されたが、わずか3回目の探査で武蔵の船体は発見された。発見時には都合によりアレンは現場には居合わせなかった。特定された沈没地点はシブヤン島の真北側のシブヤン海中央部で、清霜が記録した沈没地点のやや西側であった。 アレンは3月13日(アメリカ時間12日)に探査機の映像のインターネット生中継を行った。この映像から艦体の各部が海底に散在している状況が判明し、調査チームは沈没時に火薬庫の爆発が起こったことなどを分析した。また、観測用水上機射出用のカタパルトのマニュアルと思われる日本語の文書も発見された。船体発見が報じられたことを受け、猪口艦長への墓参りが急増したとも伝えられている。
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沈没地点
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「スカンジナビア (客船)」の記事における「沈没地点」の解説
田辺海上保安部発表による。 北緯33度26分58.98秒 東経135度43分33.78秒 / 北緯33.4497167度 東経135.7260500度 / 33.4497167; 135.7260500 (ステラ・ポラリス号沈没地点) 田並 - 地理院地図 ステラ・ポラリス号沈没地点 - Google マップ
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