沈没事故とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/03 20:09 UTC 版)
「伊号第百六十九潜水艦」の記事における「沈没事故とその後」の解説
1944年4月4日、トラック夏島の北方で停泊していた伊169はアメリカ軍の空襲を受けた。これを避けるため潜航したところ、後部荒天通風筒の弁が開放された状態であったため浸水し沈没した。篠原艦長以下21名は上陸中で難を逃れたが、乗員103名が殉職した。空襲や機材不足などから救出作業は成功しなかった。後に、艦内にある軍事機密の処分や遺体の収容のために艦首や艦橋が爆破された。 沈没時に、信号長は軍艦旗を体にたすき掛けにして収容され、みなが感涙した。軍艦旗は、陸軍の軍旗と同じく命にかえても守り通さなければならない規則と伝統があったため。沈没時には相当数の将兵が生存していた。地上とモールス信号にてやり取りが行われた 潜水艦からはハンマーで内壁をたたき交信をし、最後まで再起奉公しようと浮上しようと努力したが最後には音が絶えた。[要出典] 昭和48年9月、日本政府による遺骨収集が実施された。遺骨は千鳥ヶ淵墓苑に納骨された。現在、デュブロン島(夏島)北西、水深42mの海底に、若干左舷を下にして傾斜した状態で沈んでいる。艦首周辺と艦橋は上記の爆破により跡形もないが、その他の部分は比較的原型を留めている。
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