沈没までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:16 UTC 版)
17時37分、武蔵は清霜に以下の命令を信号で伝えた。 極力本艦をコロン島に回航せんとす。 本艦右舷機械使用可能操舵可能。 日没時清霜に依る艦尾曳航操舵を試みんとす。 島風は便宜警戒に当られたし すでに電気を使用する通信機は使えなかった。18時、宇垣中将は大和の探照灯を用いて『自力航行可能なりや』と問い合わせる。すると15分後に武蔵から『右舷内軸のみ運転可能、操舵可能』という回答があった。この時、武蔵側で応答した細谷は『我れ機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不能』だったと回想している。宇垣は翌朝まで持ちこたえられるかもしれないと見ていた。18時26分、栗田中将は『浜風は武蔵艦長の命を受け同艦の警戒に当れ。島風の武蔵警戒任務を解く』と伝える。18時30分、駆逐艦島風が武蔵左舷に横付けし、乗艦していた重巡洋艦摩耶の乗組員607名を収容した。だが摩耶士官4名、下士官兵41名が武蔵の復旧作業に従事するため残留している。島風は武蔵から離れ、利根も黛艦長の再三の『此処に居るも如何とも為しがたきに附決戦に参加し得る様御願いす』という要請によって栗田艦隊に復帰した。この時、利根は猪口艦長に対し『ザイドリッツの戦例に鑑み艦首浮力の保持に努められよ』と信号を送っている。ドイツの巡洋戦艦ザイドリッツは第一次世界大戦のユトランド沖海戦で被雷し、艦首が沈降したが後進して港に戻り座礁した。黛艦長は武蔵がこの戦訓をなぞることで沈没を免れることを望んだのである。 一方、武蔵では防水作業、復旧作業が続いていた。艦乗組員の複数の手記と証言が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したらしく、戦闘終了後に火災が継続している描写はない。左舷への傾斜を復旧させるため、左舷主錨の海中投棄が行われ、機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体といった重量物を右舷に移す作業も行われた。これらは傾斜が酷くなったときに、一斉に甲板上を右舷から左舷に滑落し、巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいた。艦内での排水作業では、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる……と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だった。乗組員の間では、「不沈艦」と信じてきた武蔵が沈没するかもしれないという不安が広がった。 傾斜復旧のための注水作業(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われ、沈没の直前には機械室、及び右舷の缶室(ボイラー室)6個のうち、外側の3つについて加藤副長より注水作業の命令があった。缶室に関しては、少なくとも1つが機関科兵によって実際に艦底のバルブ(注水弁)が開かれた。しかし、理由は不明だが一滴の水も出なかったという。大坪は機械室の注水弁を開き、注水作業に成功した。ただし、満水になるまでかなりの時間が必要なので、どの程度の効果があったか不明である。 19時5分、第二艦橋に猪口艦長、加藤副長、越野砲術長、工藤内務長、中村機関長、三浦通信長、佐野芳郎少尉(艦長附伝令)、細谷(信号部先任)、井上(見張士)が集まった。猪口は加藤に遺書と形見のシャープペンシルを渡すと、第二艦橋下の海図室に降りていった。19時8分、浜風は武蔵から『至急武蔵の左舷に横付けせよ』という信号を受取る。清霜も『横付けせよ』という手旗信号を受取る。だが巨艦の沈没に巻き込まれることを恐れた両艦は100mまで近づくのが限度だった。 19時15分頃、武蔵は左傾斜十二度となったため、加藤副長より"総員上甲板"が発令され、乗組員は後部甲板に集合した。半壊したマストから軍艦旗が降下されて間もなく、武蔵は急激に傾斜を増した。総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめる。たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃した。19時35-40分、武蔵は完全に転覆。水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていたが、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没した。この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等、諸説ある。建造期間1591日に対し、武蔵の艦齢は821日だった。 海に飛び込んだ乗組員は武蔵沈没時の大渦に巻き込まれたり、水中爆発により圧死したりした者もいたといわれるが、随伴していた駆逐艦の清霜、浜風に約1350名が救助された。清霜は25日午前1時まで救助作業を行ったと記録している。武蔵の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、長門派遣下士官兵7名。さらに沈没までの対空戦闘で前日米潜水艦の雷撃により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた摩耶の乗員も117名が犠牲になっている。戦闘詳報には『当時便乗しおりたる摩耶乗員はそれぞれ固有戦闘配置に応じ武蔵の戦闘力を増強する配備に就き極めて勇敢に奮闘努力し其の功績顕著なるものありしことを特筆す』と記された。 駆逐艦磯風の水雷長が撮影した、艦前方が半ば海面下に没した写真は、武蔵最後の姿として有名である。
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