沈没の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 07:48 UTC 版)
「シティ・オブ・ベナレス」の記事における「沈没の後」の解説
「シティ・オブ・ベナレス」の沈没の結果、407人の乗船者のうち260人が死亡した。死者の内訳は、船長と船員121人、マッキノン代将と司令部職員3人、乗客134人である。そして、乗客の死者134人のうち77人を疎開児童が占め、疎開児童90人のうち生きて上陸できたのは13人だけであった。沈没時の死者に救命ボート上で風雨に晒されたことによる死者も合わせ、最終的に90人の疎開児童のうち83人が死亡した。 本船の撃沈は議論を呼び、連合国側ではドイツ軍の「蛮行」を非難するとともに、子供たちの遺族に同情と支援が寄せられた。ドイツ側は攻撃は軍事目標に対する正当な行為であったと反論し、ドイツ側が戦闘海域であるとたびたび警告していたにもかかわらず、イギリス政府が子供たちの乗船を許可したことを逆に非難した。ドイツ側は、乗船者であったボールドウィン=ウェッブ議員やオルデンらの渡航目的は米国に対する参戦要請であり、また、「シティ・オブ・ベナレス」の帰路では軍需物資を輸送するはずだったと主張した。 CORBの疎開計画については、「シティ・オブ・ベナレス」の撃沈の2週間前に客船「フォレンダム(英語版)」がドイツ潜水艦U-60(英語版)(UボートVII型)に雷撃されたときから、すでに疑問視されていた。「フォレンダム」の場合には320人の疎開児童が乗船していたが、全員が他の船に救助されていた。CORBの運営者らは計画が継続可能であると期待しており、北大西洋航路では高速の疎開船や護衛艦を使用することや、航路上の天候が良く敵潜水艦の数も少ないオーストラリアやインド、南アフリカ方面への疎開に注力することを報告書で提案した。しかし、イギリス海軍本部は、十分な数の高速護衛艦と輸送船舶が揃えられないこと、世論は海外への疎開継続に反対していることを指摘し、さらなる悲劇の発生を懸念していた。また、ウィンストン・チャーチル首相は、疎開は敵を助けて楽にさせる行為と信じており、CORBの疎開計画に反対していた。イギリス政府はCORBによる疎開計画の中止を発表し、出航準備中の子供たちは全員下船して帰宅するよう指示された。CORBの計画中止により公的な海外疎開は停止されたが、自主的な疎開は1941年まで大規模に続けられ、14,000人もの子供たちが疎開した。なお、大内健二によれば、CORBの疎開計画中止の最大の理由は、バトル・オブ・ブリテンにイギリスが勝利したことである。 「シティ・オブ・ベナレス」を撃沈した当時のU-48の艦長だったブライヒロートは、戦後に戦争犯罪の疑いで起訴された。ブライヒロートは、子供が乗船していたことは全く知らなかったし、自身の行動は軍事的に許される範囲であったと主張して、謝罪も拒否した。イギリス国防省戦史部のケイト・ティルデスリー(Kate Tildesley)ら複数の歴史研究者が、ブライヒロートは子供の乗船に気づいていなかったという説を支持している。ケイト・ティルデスリーは、“What was not known by Bleichrodt was that the liner he was attacking carried 90 children ... Only 13 of the children survived, and the understanding that Bleichrodt could not have known which passengers were on board the liner made little difference to his perceived culpability.”と述べている。U-48の通信士ら乗員の一部は、後に撃沈した船が子供を乗せていたことを知って、ショックを受け後悔したと述べている。彼らは、ドイツ側の立場からすれば、潜水艦が目標の船上に誰が乗っているのか知るすべはなかったと断言している。
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