沈没の直接的原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 15:58 UTC 版)
武蔵はアメリカ海軍機の攻撃により、推定雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という猛攻撃を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと、アメリカ軍の攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所がずれていったこと等が影響し、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として1945年(昭和20年)4月の天一号作戦時の大和への攻撃を左舷に集中させたとされるが、アメリカ軍側にそれを実証する資料はない。 猪口艦長は、「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」という言葉を副長に託した手帳に残した。逆説的な意味で、「武蔵は航空機の前では無力だった」とする見方もある。武蔵と同じく栗田艦隊に所属し、10月24日午前中のアメリカ軍機攻撃で被雷し落伍した重巡洋艦妙高では、このような所見を述べている。「現有対空射撃兵器を以てしては、之を如何ほど増強し如何に教育訓練に努力するも、その到達する所の射撃実力には限界あり。もっとも現有の対空射撃兵器の性能は主砲、高角砲、機銃、共に極めて貧弱にして現下の複雑困難にして熾烈なる対空戦闘には通じるものに非ず」。武蔵の沈没は、姉妹艦大和の将兵にも影響を与えた。宇垣はこの時のことを戦藻録に『嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり』と記した。 大和型戦艦は日本軍航空隊が制空権を掌握した上で、その掩護下で艦隊決戦を挑むために開発された戦艦である。味方航空機の支援が1機もなく、逆に日本軍航空隊が壊滅した状態で100機以上の敵航空機から集中攻撃される事態は設計者達の予想を超えていた。大和型戦艦設計者の一人である牧野茂は絶対的不沈艦などありえないと前置きした上で、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と述べているが、それが当初予定されていたそうした戦術に結びつかなかった事が、丸裸で航空機の標的に晒された現実に出ているともいえる。 武蔵最後の戦闘記録は第一艦橋が全滅したこともあって不明な点が多く、現在でも謎が多い。副長の加藤憲吉のメモによれば魚雷命中、右舷に8本、左舷に15本、爆弾の直撃17発、至近弾18発である。副長付き信号兵の細谷四郎によれば、右舷に5本、左舷25本である。右舷に5本の根拠について細谷は、武蔵の転覆時に横倒しで水平となった右舷側面水線下を歩き、そこに魚雷による破孔5つを確認したからだとしている。一方アメリカ軍は、爆弾命中44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発と記録した。 武蔵の沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水である。特に1番主砲塔より前の非防御区画は、魚雷が4-5本命中したために全部浸水してしまった。一方後部区画には魚雷の命中は右舷後部に5本のみと比較的少なく、浸水は殆どなかったようである。またバイタルパート内部においては、左舷外側主機室や第12缶室への浸水・水没が確認されている。外側右舷外側缶室の1室は魚雷攻撃により隔壁からの漏水が発生し、防水処置をしたものの、その後の魚雷命中の衝撃で、打ち込んだ楔などが全て吹き飛ぶなどしたために、最終的に乗員は腰まで海水に漬かった。もう1室についても緩徐な浸水に見舞われたが、隣室への防水扉を駆動する電気回路が故障したため、彼らは脱出不能となった。天井に穴をあける作業が行われたが、非常に厚い装甲板(200ミリ)だったため全員溺死した。内側の6室の缶室(1、2、5、6、9)には浸水はなかった。右側外側の缶室は別記したように戦闘終了後に傾斜復旧のため、注水命令が下令されている。4室ある機械室(タービン室)も最終的に3室まで浸水が確認されている。甲板二層にわたる巨大な空間が満水になることで、艦の浮力とバランスが失われた。4列ある機関区の外側の区画も、度重なる同一部位への魚雷命中により、バルジや水面下装甲板を破壊され大浸水をきたした。隔壁の破壊を逃れた区画も、船体の沈下に伴い通気孔などからの緩徐な浸水に見舞われた。アメリカ軍は、主要防御区画を守る20度傾斜410ミリVH甲鈑と下端のNVNC甲鈑との接合部分に構造的問題があり、主要防御区画への浸水遮蔽が不十分だったと指摘している。一方で魚雷1本の被雷で深刻なダメージを受けた巡洋艦に比べ、戦艦が極めてタフであり、容易に撃破できぬ艦種であることも明らかにした。「戦艦武蔵建造記録」では「よくぞここまで耐えた」と記している。 大和型戦艦は予備浮力が多く確保され、その比は長門型戦艦の1.5倍あり、同時期の他国の戦艦と比較しても浸水に対しては余裕を持った設計になっている。「7万トンを超える巨艦にしては小型軽量設計」が特徴の大和型だが、この小型化が更に浮力余裕を持たせられなかったとも言われる。『戦艦武蔵建造記録』では、沈没時の浸水35,000トン、浮力は22,450トンと推定し、沈没原因を復元力の喪失と結論づけている。 しかし、これだけの猛攻に耐えた武蔵だが、一方では、電気溶接を採用しなかったことが弱点になっていたとも考えられている。日本海軍では第四艦隊事件で電気溶接が船体の脆弱化を招いたと責任転嫁的に結論づけられたため、その後、船体建造にあたって最新技術である電気溶接の採用を制限し、従来どおりのリベットによる接合に逆戻りするということが起こっていた。2016年放送のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期 ~映像解析 知られざる“真実”~」では、三菱長崎造船所が提供した武蔵の資料を分析したところ、電気溶接でなく、旧来のリベット打ちによる装甲版の繋ぎ止めが被雷時の衝撃によって抜け落ちるか、もしくは折れる等の破損によって装甲板の繋ぎ目部分が外れ、そこから大量の海水浸入を招いたとする説を取り上げている。 これは後の大和や、一ヶ月後の空母に改造された姉妹艦「信濃」にも、被雷時に同じような形で作用し、沈む要因を造っている(2019年放送のNHKBS1スペシャル『幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~』より)。旧来工法に頼りきりだった日本の建艦技術力限界も沈没要因の一つであり、頑強な戦艦といえど、航空機の継続的な攻撃の前に屈することは、皮肉にも日本海軍が真珠湾攻撃によるアメリカの戦艦であるアリゾナ、オクラホマ、ネヴァダ、ウェストバージニアと、2日後のマレー沖海戦でイギリスの戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという他国戦艦群を沈めたことから始まり、それは武蔵の半月後のドイツの戦艦であるティルピッツ、更に半年後の大和の最期でも証明された形になった。
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