沈没、その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 17:45 UTC 版)
「愛国丸 (特設巡洋艦)」の記事における「沈没、その後」の解説
1944年(昭和19年)1月16日、愛国丸は駆逐艦満潮(第24駆逐隊)に護衛されて瀬戸内海を出発、横須賀に移動した 1月24日、エニウェトク環礁へ進出する予定の第六十八警備隊(青山英夫海軍中佐)の兵員と軍需品を乗せた愛国丸は、横須賀を出発した。31日午前4時、満潮と白露が護衛中の靖国丸が、アメリカ潜水艦トリガー (USS Trigger, SS-237) の雷撃で沈没した。愛国丸は靖国丸被雷の状況を速報する。満潮は対潜戦闘をおこなったのち、愛国丸船団に合流した。2月1日、愛国丸船団はトラックに到着する。 トラック到着後、ギルバート・マーシャル諸島の戦いにともなうクェゼリン環礁玉砕の報を受けて、愛国丸の行き先はウォレアイ環礁に変更された。2月17日早朝、水上機母艦秋津洲に横付けして荷役作業を行っていたところ、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦上機によるトラックへの波状攻撃を受ける。第一波の攻撃により爆弾が命中して甲板を貫通し、烹炊所で爆発。やがて空襲警報が解除されて応急修理に取り掛かるも、間もなく第二波の攻撃が始まる。急降下爆撃により船体前部に直撃弾を受け、別の1機は船橋に接触して爆発。被弾により火災が起き、やがて搭載してあった魚雷や弾薬、ダイナマイトが大爆発を起こして前方に傾斜し、3分で沈没していった。沈没時刻は8時10分だった。乗員のうち12名が戦死し、第六十八警備隊の兵員も青山中佐(同日、海軍少将に特進)以下425名が戦死した。ともに行動した事がある清澄丸、かつて拿捕したハウラキ改め伯耆丸も、この空襲により沈没した。 下って1984年(昭和59年)、『トラック大空襲』の著者吉村朝之と、トラックにあるダイビングショップの創始者であるキミオ・アイセックの尽力により、デュブロン島沖の最大80メートルの海底で船体が発見された。船体は敵機が船橋に激突して爆発したことと、1番・2番・3番船倉に搭載してあった魚雷や弾薬、ダイナマイトが大爆発を起こしたため、煙突部分より前が亡失しているが、後部は原型をとどめている。 2007年(平成19年)に、「現地のガイドが愛国丸の船体内に残留する遺骨を見世物にしてチップを稼いでいる」などと産経新聞が報じたが、水中カメラマンの "satoagg" (ハンドルネーム)氏は、船体の沈没地点がダイバーが活動するには水深が深すぎるため、「危険な大深度のダイビングのガイドをやってくれたお礼」なのかもしれません」「様々な事情(情報)を知らずして現地を非難して欲しくない」などと反論している。 1994年(平成4年)2月、トラック島空襲から50年が経過した記念として、愛国丸と富士川丸(東洋海運、6,938トン)の甲板上に記念碑が設置された。現在、この記念碑の隣に遺骨の一部が並べられている。 日本政府は2021年(令和3年)10月頃に愛国丸をはじめとするトラック諸島の沈没艦船に残留する遺骨収集の実施を目指すと中日新聞が報じた。
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