愛国丸 (特設巡洋艦)
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愛国丸(あいこくまる)は、大阪商船が南アフリカ航路へ投入するために建造した報国丸級貨客船の2番船。日本海軍に徴用され、姉妹船報国丸と共に仮装巡洋艦に改造される[6]。太平洋戦争緒戦では南太平洋や[7]、インド洋で通商破壊を行った[8]。1942年(昭和17年)11月11日に報国丸が沈没[9]、愛国丸は生存者を救助した[注釈 1]。 その後は輸送任務に投入され、1943年(昭和18年)10月から特設運送船となった。1944年(昭和19年)2月17日のトラック島空襲で沈没した[11]。
注釈
- ^ a b c (昭和17年11月)[10]〔 11|1545|愛國丸、報國丸(aC)「ココス」島ノSW約80′ニ於テTc×1撃沈|印度洋|報國丸ハ護衛艇ト交戰之ニ火災ヲ起シ遁走セシメタルモ報國丸又舟尾ニ一彈命中火災ヲ生ジ之ガ爲舟尾ニ大誘爆ヲ起シ1538沈没 愛國丸ハ生存者二七八名ヲ収容一応作戰ヲ打切リ昭南ニ皈投スルコトヽナレリ 〕
- ^ 20名の回航班が愛国丸からゼノタ(オランダ人12名、下級船員の中国人38名)へ移乗を完了するまで、約4時間を要したという[51]。
- ^ ヘノタ(ゼノタ)は5月9日に拿捕地点を出発、5月17日にペナン着、5月30日タラカン着、6月10日徳山着、17日東京湾着、6月20日横浜着[52]。日本海軍籍に編入され、特務艦大瀬となる[53]。
- ^ 大破した同船は、6月9日に伊18の雷撃を受けて沈没した。
- ^ ハウラキは後に伯耆丸と改名され、三井船舶の手により運航される[55]。また、ハウラキの船内の積荷の中にはレーダーがあったものの問題にされず、積荷の中ではむしろ、ウイスキーやブランデーなどアルコール類が喜ばれた[56]。さらに、押収した新聞により、シドニー港攻撃の詳細と乗員が手厚く葬られた事を知った[56]。
- ^ 大石保中佐は1941年(昭和16年)4月に第一航空艦隊首席参謀(通称南雲機動部隊)となり、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に参加した。7月14日付で海軍大学校教官となり[59]、8月15日付で連合艦隊付となっていた[60]。
- ^ 大保中佐は、11月1日付で大佐に昇進した[62]。
- ^ 南東方面部隊指揮官は、第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将である。
- ^ 司令長官三川軍一中将(外南洋部隊指揮官)、海兵38期。
- ^ 〔 十四日0813第八艦隊司令長官(宛略)第八艦隊機密第14081353番電「ム」号作戰ニ関スル外南洋部隊ノ要旨左通リ[85] 一.兵力部署(区分指揮官兵力)主隊直率 鳥海/支援隊 第七戰隊司令官 第七戰隊/R方面護衛隊 第十八戦隊司令官 第十八戰隊(竜田欠)/「ウエワク」攻略部隊 第十驅逐隊司令 第十驅逐隊(秋雲欠)清澄丸/「マダン」飛行場攻略部隊 愛國丸船長 駆逐艦四隻 愛國丸護國丸/母艦航空部隊 第二航空戰隊司令官 第二航空戰隊(飛鷹欠)第十戰隊(驅逐艦欠)驅逐艦三隻(以下略) 〕
- ^ 天龍は23時頃に沈没した[86]。生存者の大部分は駆逐艦涼風に収容された[94]。第十八戦隊司令官は駆逐艦磯波に旗艦を変更し、引き続き上陸作戦を指揮した[91]。
- ^ (昭和19年1月31日)[116]〔 上欄 〕○靖国丸、三一-〇四〇〇、9°-15′N 147°-13′E、雷撃ヲ受ケ沈没。〇一二二雷跡発見、〇一五五2900KC通話開始、〇三五五被雷、〇四〇〇ヨリ四~五隻出現、連絡ヲトリツツアリタリ(愛国丸報)。(以下略)
出典
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- ^ 日本時間での日付。11月28日に日付変更線を超えている[21]ため、現地時間では7日。1942年1月28日に東から日付変更線を超える[22]まで同様。
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- ^ 野間, 205ページ
- ^ 野間, 207、208、213、214ページ
- ^ a b 外部リンク「愛国丸とキミオさん」参照
- ^ 外部リンク「トラック諸島に沈む日本の艦船と遺骨について」参照
- ^ 船底に父は眠るはず 政府、トラック諸島で遺骨収集へ
- ^ 加藤学 (2024年6月25日). “トラック諸島沖の戦没船「愛国丸」から30年ぶりに遺骨収容…厚労省、SNSでの写真拡散受け”. 読売新聞. 2024年6月25日閲覧。
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- 1 愛国丸 (特設巡洋艦)とは
- 2 愛国丸 (特設巡洋艦)の概要
- 3 同型艦
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