建造と特徴、就役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:39 UTC 版)
報国丸級貨客船は、大阪商船工務部長を務めた和辻春樹にとっては最終期の作品であり、「最後の傑作」とも言われる。あるぜんちな丸級貨客船と同様、代用資材を使用して内装を仕上げ、「報国丸」には「奈良」、「愛国丸」には「京都」と呼ばれる特別船室が設けられて「国際的水準の船客設備」を完備していた。しかし、短期間ながら商業航海を行うことができた「報国丸」はともかく、竣工翌日に徴傭された「愛国丸」の船客設備は一般に見られることなく姿を消した。第3船「護国丸」にいたっては完全に軍用船としての装備となり、客室はすべて大広間に統一された。 大阪商船は、あるぜんちな丸級貨客船までの主だった貨客船の建造を三菱長崎造船所に発注していた。しかし、この報国丸級貨客船建造前後からは玉造船所(三井造船)、川崎重工業に発注するようになった。大阪商船出身の海事史家である野間恒はその理由について、「永年発注してきた三菱長崎造船所との関係が微妙になり」 というぼやけた表現でしか説明していない。報国丸級貨客船は、オーストラリア航路向けに建造されたかんべら丸型貨物船2隻および沖縄航路向けの波上丸級貨客船2隻に続く玉造船所の大阪商船向け船舶の第三弾として建造された。また、玉造船所が大型貨客船を建造するのは報国丸級貨客船が最初であり、「労苦は想像を絶するもの」だった。 「護国丸」は当初「興国丸」と命名されていたが、発音が「こうこくまる」では「ほうこくまる」と紛らわしいことから「護国丸」に改められた。しかし、改称時期は定かではない。「報国丸」竣工間際の1939年(昭和14年)から1940年(昭和15年)ごろの当時の新聞記事では「興国丸」の名前があり、「興国丸」を計画時のみの名前とする文献もあるものの、新聞記事を参照する限りは計画だけにとどまらず一般に公表されていた名前だった。これに限らず、報国丸級貨客船の船名は、これまで地名や色に由来する船名を付けていた大阪商船の船隊において、例外的に時局に沿った船名が付けられた。 報国丸級貨客船は「あるぜんちな丸」(12,755トン)と同じ1937年(昭和12年)7月15日に建造契約が締結されたが、締結直前に勃発した日中戦争の影響を受け、建造スケジュールは大幅に乱れることとなった。当初は昭和14年中に3隻がそろう予定と報じられ、次いで「昭和14年暮れから昭和15年春」に相前後して処女航海に出ると報じられる。昭和15年の年頭には「愛国丸」と「興国丸(護国丸)」は昭和15年中には就航すると報じられ、竣工時期はさりげなく遅延していった。そして、「愛国丸」と「興国丸(護国丸)」は一般の商船として世間の前に姿を見せることはなかった。「報国丸」のみは昭和15年6月に竣工後アフリカ東岸線に就航したが、優秀船保護のためわずか一航海で撤退して大連航路に移り、太平洋戦争勃発直前に「愛国丸」とともに特設巡洋艦となった。建造期間が戦争勃発をまたいだ「興国丸(護国丸)」は特設巡洋艦として建造されることとなり、デリックポストが3基以上ある状態で進水式を迎えたが、竣工時には2基に減じられ、「報国丸」および「愛国丸」とは姿を大幅に改めることとなった。
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