建造と艦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 09:38 UTC 版)
「アヴィエーレ (駆逐艦)」の記事における「建造と艦歴」の解説
アヴィエーレはリヴォルノのOTO造船所で建造され、1937年1月16日に起工され、1937年9月19日に進水、1938年8月31日に竣工した。 イタリアが1940年6月10日に第二次世界大戦に参戦した際、アヴィエーレは同型艦のアルティリエーレ、ジェニエーレ、カミチア・ネーラとともに第11駆逐艦部隊の一部だった。 6月11日に第11駆逐艦部隊の他の同型艦、第12駆逐艦部隊(アスカリ、ランチエーレ、カラビニエーレ、コラッツィエーレ(イタリア語版))、第3巡洋艦分隊(重巡洋艦トレント、ポーラ、ボルツァーノ)および第7巡洋艦分隊(軽巡洋艦ムツィオ・アッテンドーロおよびエマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ)とともにシチリア海峡での偵察任務に赴き、6月19日にはアウグスタからリビアのベンガジへ補給物資を輸送した。 7月7日1545時に専門部隊と第3巡洋艦分隊(トレントおよびボルツァーノ)はメッシーナを出航し、第2艦隊の他の艦艇(重巡洋艦ポーラ、第1、第2および第7巡洋艦分隊の計9隻の駆逐艦部隊および第9、第10、第12および第13駆逐艦艦隊)に加わってリビアへの輸送任務を務めた後に、第1艦隊に加わって7月9日のカラブリア沖海戦に参加した。この衝突でのイタリア艦隊の撤退中に、第11駆逐艦部隊は1615時にイギリス艦艇を発見して攻撃を開始し、特にソルダティ級一番艦のアルティリエーレが張った煙幕から出たアヴィエーレは敵艦から10,800メートルに行ったが、他の3艦(戦艦に対して7発、巡洋艦に対して3発の合計10発の魚雷を発射した)と一緒には魚雷を発射することができなかった。 10月6日の朝、姉妹艦3隻とともにリビアに向かう航路で2隻の商船と4隻の駆逐艦を目視した第3巡洋艦分隊(トレント、トリエステ、ボルツァーノ)に合流し、"CV"作戦を実行するのを支援するためにメッシーナを離れたが、イギリスの戦艦を目視したのちに全艦艇が帰港した。 1940年10月11日から12日にかけての夜、カルロ・タラリゴ中佐の指揮の下、第11部隊の僚艦3隻及び第1部隊の水雷艇(アルシオーネ(イタリア語版)、アイローネ(イタリア語版)、アリエル)を伴ってマルタ島東海域に、当海域にいるはずの英艦を探す哨戒任務に派遣された。10月12日の夜の早い時間に、第1部隊の水雷艇3艇がマルタへの船団護衛の後でアレクサンドリアへ帰投中のイギリス海軍の大船団の一部である軽巡洋艦エイジャックスを攻撃し、混乱した対決の後にアイローネとアリエルが沈没したが、エイジャックスの損害は軽微だった。0137時に攻撃に先立って水雷艇は探知信号を送ったが、これは第11部隊の駆逐艦によって異なる時刻に受信された。アヴィエーレは0156時に信号を受信し、北に転針した後に攻撃を率い、0210時に英巡洋艦を目視、魚雷発射の準備を行ったが、魚雷が発射可能になる前の0215時にエイジャックスが砲撃を開始して2斉射が、1斉射は艦首に、もう1斉射は艦尾の電力系統に命中、射撃管制および艦尾の120㎜2連砲が破壊された。0218時、打撃を受けたアヴィエーレは動力を喪失し、深刻な損傷を負い、速力も14ノットに低下したため戦線から退いた。夜明けの直後、アヴィエーレはジェニエーレと合流してアウグスタを目指し、朝に到着した。 1941年2月23日19時、アヴィエーレはアンカラ、マールブルク、ライヒェンフェルス、キブフェルスからトリポリへ向かう商船を護送するためにジェニエーレ、駆逐艦アントニオ・ダ・ノリ(イタリア語版)および水雷艇カストーレ(イタリア語版)とともにナポリから出航した。 3月12日と13日にカラビニエーレ、コラッツィエーレ、水雷艇デッツァ(イタリア語版)および巡洋艦トレント、トリエステ、ボルツァーノとともにナポリからトリポリへと向かう輸送船団(兵員輸送船コンテ・ロッソ(イタリア語版)、マルコ・ポーロ、ビクトリア、駆逐艦フォルゴーレ、カミチア・ネーラ、ジェニエーレ)の間接護衛任務を務めた。 4月14日にトリポリへ向かう蒸気船アリカンテ、サンタ・フェ、マリツァ、プローチダを駆逐艦グレカーレ、ジェニエーレ、カミチア・ネーラ、水雷艇プレイアディ(イタリア語版)とともに護衛するためにナポリを出航し、イギリス艦の攻撃を避けるために17日から4月18日の8時までパレルモで停泊したのちに護送船団は航海を続け、リビアの港には20日に到着した。 5月11日に商船プロイセン、ヴァハテル、エルネスト、テンビエン、ジュリア、コル・ディ・ラーナおよび駆逐艦ダルド(イタリア語版)、ジェニエーレ、グレカーレ、シロッコ、カミチア・ネーラからなる護送船団を護衛してナポリを出航し、14日にトリポリに到着した。 6月3日にアヴィエーレ同様の駆逐艦ダルド、ジェニエーレ、カミチア・ネーラおよび水雷艇ミッソーリ(イタリア語版)に護衛される商船アキタニア、カファーロ、ニルヴォ、モンテッロ、ベアトリーチェ・コスタおよび油槽船ポツァリカからなる「アキタニア」護送船団の一部としてナポリ・トリポリ間を航海し、6月4日にケルケナ諸島の沖合約30kmで航空機からの攻撃を受け、モンテッロが被弾して誰も脱出できないうちに爆破し、ベアトリーチェ・コスタも航行不能となる損害受けてカミチア・ネーラによって沈没させられた。 6月25日、兵員輸送船エスペリア、マルコ・ポーロ、ネプチュニア、オケアニアを駆逐艦ジョベルティ、ジェニエーレ(イタリア語版)およびダ・ノーリとともに護衛してナポリを出航し(巡洋艦トリエステ、ゴリツィアおよび駆逐艦アスカリ、コラッツィエーレ、カラビニエールが間接的に護衛した)、27日にターラントに停泊したあとで、数回の航空攻撃(エスペリアが軽微な損傷を負った)があったにも関わらず29日にトリポリに到着した。 8月4日、蒸気船ニータ、アキタニア、エルネスト、ニルヴォおよびカステルヴェルデに内燃機タンカーのポツァリカを加えた船団を護衛してナポリを出航し(残りの護衛は駆逐艦ジョベルティ、ジェニエーレ、オリアーニ、バンディエラ・ネーラおよび水雷艇カリオペー(イタリア語版))、8月6日にカミチア・ネーラとカリオペーが援護したにも関わらずニータがイギリス空軍830スコードロンの航空機から攻撃されて北緯35度15分、東経12度17分で沈没したが、船団の他の船舶は目的地に翌日到着した。 8月29日から9月2日かけて、駆逐艦オリアーニ、ダ・ノーリ、カミチア・ネーラ、ウソディマーレ(イタリア語版)、ペッサーニョ(イタリア語版)とともに兵員輸送船ビクトリア、ネプチュニアおよびオケアニアからなる船団を護衛して、初めはナポリからトリポリへ、その後トリポリからターラントへ、英潜水艦アプホルダーから攻撃されたにも関わらず損害を受けずに帰還した。 9月23日、カミチア・ネーラとともに、マルタ島の東に機雷を敷設する目的の駆逐艦ランチエーレ、カラビニエーレ、アスカリ、コラッツィエーレを護衛した。 10月12日と13日の夜、駆逐艦ヴィヴァルディ(イタリア語版)、マルチェッロ(イタリア語版)、ピガフェッタ(イタリア語版)、ダ・ヴェラッツァーノ(イタリア語版)、カミチア・ネーラおよび軽巡洋艦エウジェニオ・ディ・サヴォイア、モンテクッコリ、デュカ・ダオスタとともに機雷を敷設するはずだったが、地中海艦隊が海域から離脱したことをうけて命令が撤回された。 11月21日0810時、リビアへの2組の船団を間接的に護衛するためにカミチア・ネーラ、ジェニエーレ、コレッツィエーレ、カラビニエーレおよび巡洋艦ガリバルディ、ドゥーカ・デッリ・アブルッツィとともにナポリを出航した 。作戦は航空および水中攻撃(ドゥーカ・デッリ・アブルッツィおよび重巡洋艦トリエステが深刻な損害を受けた)によって失敗し、22日1時にアヴィエーレは帰還する船団を護衛するために巡洋艦ゴリツィアとともにターラントで離脱した。 12月13日の1940時、戦艦ドーリア、巡洋艦ムツィオ・アッテンドーロ、デューカ・ダオスタおよび駆逐艦アスカリ、カミチア・ネーラとともにM41作戦(商船6、駆逐艦1、水雷艇1を含むリビアへの3船団)を間接的に護衛するためにターラントから出航したが、2隻の商船(ファビオ・フィルツィとカルロ・デル・グレコ)が沈められ、戦艦ヴィットリオ・ヴェネトが深刻な損傷を受けた潜水艦からの攻撃によって打撃を受け、アヴィエーレは駆逐艦ヴィヴァルディ、ダ・ノーリ、ジェニエーレ、カラビニエーレ、カミチア・ネーラおよび水雷艇リンス、アレテューサとともにターラントにもどるヴィットリオ・ヴェネトを護衛するために出向いた。 12月16日、アスカリ、カミチア・ネーラおよび戦艦ドゥイリオ、巡洋艦デューカ・ダオスタ、アッテンドーロ、モンテクッコリとともにリビアへの船団輸送作戦M42(補給品14,770トンと兵員212名を積載した4隻の輸送船、駆逐艦7隻および水雷艇1が使用された)の近接防御を行い、成功裏に完了した。 1942年1月3日1850時、駆逐艦カラビニエーレ、アルピーノ、アスカリ、ピガフェッタ、ジェニエーレ、ダ・ノーリ、カミチア・ネーラ、重巡洋艦トレントおよびゴリツィア、戦艦リットリオ、チェザーレ、ドーリアとともにM43作戦(総計商船6、駆逐艦6、水雷艇5からなるリビアへの3つの船団)を間接的に護衛するためにターラントを出航し、1月5日17時にアヴィエーレも属する「リットリオ」グループの全ての商船が無事に目的地に到着し、トーラントへと帰還した。 1月22日、駆逐艦ヴィヴァルディ、マロチェッロ、ダ・ノーリ、ジェニエーレ、カミチア・ネーラおよび水雷艇オルサとカストーレとともに「T.18」作戦(ターラントから出航した兵員輸送船ビクトリアとメッシーナから出航した物資15,000トン、戦車97両、車両271両、人員1,467名を積載した貨物船ラヴェッロ、モンヴィーゾ、モンジネヴロ、ヴェットール・ピサニからなる輸送船団)を直接護衛していたが、航海中の23日にビクトリアが雷撃機3機からの攻撃で行動不能となり、救助のためにアヴィエーレとカミチア・ネーラが停戦したが航空機4機による第二波攻撃によって同船にとどめが刺された(乗船していた1455名のうち、1063名は救助された)。 2月21日の16時に駆逐艦アスカリ、ジェニエーレ、カミチア・ネーラおよぼ戦艦ドゥイリオとともにターラントを出航し、「K7」作戦(トリポリを目指した貨物船5、油槽船1、駆逐艦10、水雷艇2からなる2船団)を間接的に護衛した。 3月の7日から10日には巡洋艦ガリバルディおよびエウジェニオ・ディ・サヴォイアとともに「V5」交通作戦(リビアに4隻の高速船を送るもの)に参加した。 3月21日深夜、アヴィエーレと駆逐艦グレカーレ、アスカリ、オリアーニからなる部隊は戦艦リットリオとともにターラントを離れ、第2次シルテ湾海戦に参加したが、重要な役割は果たさなかった。 1942年にはアヴィエーレは120mm照明弾発射砲の撤去および4門の20mm対空砲の搭載を施された。 同年8月、同艦の艦長イグナツィオ・カストロジョヴァンニが部隊の指揮をとった。 8月中旬の戦い中の8月11日から12日にかけての夜間、すでに航空機、潜水艦および魚雷艇によって損害を受けたイギリスの「ペデスタル」船団を攻撃して殲滅することを目標として、第3巡洋艦艦隊(トリエステ、ゴリツィアおよぼボルツァーノ)と第7巡洋艦艦隊(エウジェニオ・ディ・サヴォイア、アッタンドーロおよびモンテクッコリ)および駆逐艦9隻とともい出航したが、編隊は敵の攻撃を警戒して帰還を命じられ、帰投中に英潜水艦アンブロークンによる魚雷攻撃でボルツァーノが深刻なダメージを受けた。アヴィエーレとジェニエーレは炎の中でボルツァーノを曳航し、パナレアの近くで座礁させた。 同年9月、8隻の護衛艦艇によって保護された商船4隻(そのうちの1隻は空襲による損害のために引き返すことになった)からなるリビアへの交通作戦に際しては指揮艦艇となった。 それに続いて第11部隊の僚艦とともにリビアへの輸送任務、錫の中のガソリンを実施した。 同年10月17日にジェニエーレおよびカミチア・ネーラとともに、内燃機船アンカラの護衛としてコルフ島から出航し、船団は水雷艇オルサおよびアレテューサに護衛された内燃機船モンジネヴロ(ブリンディジから出航)と合流し、駆逐艦アルピーノで補強され、航海の終わりに向けて船団を分割し、他船がトブルクに向かった間に、アヴィエーレ、モンジネヴロ、ジェニエーレ、カミチア・ネーラがベンガジで追いついた. 1942年12月16日、独内燃機船アンカラをビゼルトまで護衛するために、姉妹艦カミチア・ネーラとともにナポリを出航した。12月17日の1115時、ビゼルタの北方約60km地点で、英潜水艦スプレンディドが数発の魚雷で船団を攻撃し、一発がアヴィエーレに命中して爆発、アヴィエーレは右舷側に旋回して、艦体が二つに折れ、数秒後に北緯38度00分、東経10度05分に沈没した。 アヴィエーレには230名から250名が乗っており、100名ほどは船を離れる時間があったが、全速力で離脱していたカミチア・ネーラとアンカラに救助された生存者はおらず、艦の沈降があまりにも急激で激しかったため、さまざまな残骸に加えて2叟の救命筏だけが上部構造から外れていた。午後になって水雷艇カリオペーとペルセオ(イタリア語版)が難破した艦に到着した時には、生き残っていたのは2人だけの将校(副官のオリント・ディ・セリオと機関士、後者はナフサを飲み込んだ結果、トラパーニのトレビアンカ病院で死亡した)を含む30人だけが生き残っていた。 死者・行方不明者220名(別の資料では200名)の中には司令官のカストロジョバンニもいたが、彼は部下を集めて励ました後で、疲れ果てた水平に救命筏の自分の場所を譲り、海中に姿をけし、この記憶のために武功勲章が授与された。
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「スプレンディッド (S級潜水艦)」の記事における「建造と艦歴」の解説
スプレンディッドは1941年海軍計画の一部として1940年10月14日に発注された第3グループのS級潜水艦である。1941年3月7日にチャタム工廠で起工され、1942年1月19日に進水した。1942年8月8日、イアン・マッギーク(英語版)大尉の指揮の下にイギリス海軍で就役した。スプレンディッドはイギリス海軍で3隻目の同名の艦である。 訓練期間の後で、スプレンディッドは1942年10月3日に、姉妹艦シビル(英語版)とともにホーリー・ロッホを出航した。出航後10日、正午過ぎにスプレンディッドは煙を視認し、正体不明船の追跡を行い、4時間後に停船して乗り込んだところ、予定から遅れている連合国のガイスカだった。同日遅くにUボートを発見したが、艦の特定もできず、攻撃も行わなかったスプレンディッドは10月16日に無事にジブラルタルに到着した。
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「アスカリ (駆逐艦)」の記事における「建造と艦歴」の解説
アスカリはリヴォルノのOTO造船所で建造され、1937年12月11日に起工され、1938年7月31日に進水、1939年5月6日に竣工した。同艦は就役したソルダティ級第一系統(戦前)グループの最後の艦だった。 イタリアが1940年6月10日に第二次世界大戦に参戦した際、アスカリは同型艦のランチエーレ、コラッツィエーレ(イタリア語版)、カラビニエーレとともに第12駆逐艦部隊を構成していた。6月11日にアスカリと同型艦はシチリア海峡の偵察任務に出動した。 1940年7月9日にアスカリと第12駆逐艦部隊各艦はカラブリア沖海戦に参加し、戦闘の終盤にイギリスの地中海艦隊を魚雷攻撃する命令を受けた。アスカリは英巡洋艦に向けて魚雷を発射したが命中しなかった。 7月後半から8月前半にかけて、アスカリはリビアへの大規模な護送船団、「T.V.L.」作戦の護衛部隊の一員だった。 10月5日にアスカリと第12駆逐艦部隊各艦はドデカネス諸島を目指す護送船団(CV作戦)の護衛部隊の一部としてターラントを出航したが、同作戦は地中海東部でイギリスの戦艦を偵察機が発見したことから中止された。1940年11月26日~27日、アスカリはスパルティヴェント岬沖海戦に参加した。戦闘中にランチエーレが巡洋艦マンチェスターの6インチ砲弾を被弾し航行不能となった。アスカリは自力では動けない艦をカリャリへと曳航した。 1941年2月にイタリアと北アフリカの間の護送船団作戦に参加し、2月25日に潜水艦アップライトから魚雷攻撃を受けて沈没した軽巡洋艦アルマンド・ディアスの生存者を救助した。1941年3月26日~29日にかけてアスカリと第12駆逐艦部隊各艦はマタパン岬沖海戦で第3巡洋艦隊の巡洋艦を護衛した。 1941年3月から9月にかけて、アスカリはイタリア - リビア間の数多くの護送船団を護衛した。だいたいの船団輸送は成功したが、1941年5月24日に兵員輸送船コンテ・ロッソ(イタリア語版)が英潜水艦アプホルダーから雷撃されて沈没し、1,300名近くの損失が出た。 1941年9月23日にアスカリと同型艦はマルタ沖に機雷源を敷設し、続けてイギリスの護送船団を阻止するための第3および第8巡洋艦隊の行動に参加したが不首尾に終わった。 12月13日にイタリア - リビア間の大規模な護送船団作戦である「M.41」に合流したが、同作戦は航空機および潜水艦からの猛攻にあって失敗した。12月16日にリビアへの別の大規模護送船台作戦、「M.42」に参加し、マルタへ向かう連合国の護送船団の護衛と短時間遭遇したにも関わらず成功裏に終わった。この時の戦闘行動は第1次シルテ湾海戦として知られている。 1942年の1月から3月にかけて、成功裏に完了したさらに4回のリビアへの大規模護送船団作戦、「M.43」、「T.18」、「K.7」および「V.5」に参加した。この作戦中の唯一の損失は1942年1月24日に連合国の雷撃機によって沈められた兵員輸送船ヴィクトリアだった。アスカリは輸送船からの生存者を救出した。3月21日から22日には第2次シルテ湾海戦に参加した。 1942年1月13日~15日に第10駆逐艦部隊に編入され、第7巡洋艦部隊および第14駆逐艦部隊とともに、マルタへのイギリスの護送船団「ハープーン作戦への攻撃に参加した。続く戦闘ではアルフレード・オリアーニ(イタリア語版)とともにイギリスの護衛駆逐艦と交戦し、ベドウィン(英語版)に命中させ、そのあとで枢軸軍の航空攻撃で航行不能となっていた油槽船ケンタッキーおよび蒸気船バルドワンにとどめを刺した。研究者のフランチェスコ・マテッシーニはアスカリが漂流していたバルドワンを2発の魚雷で沈めたと述べている。1942年後半から1943年前半の間、イタリアとチュニジアの間での護衛及び兵員輸送任務とともにシチリア海峡で数多くの機雷敷設任務に従事した。 1943年3月23日にドイツ兵をチュニスへ運ぶためにパレルモを出航し、洋上でやはりドイツ兵を載せいている同型艦のカミチア・ネーラおよび他の2隻の駆逐艦、レオーネ・パンカルド(イタリア語版)およびランツェロット・マルチェッロ(イタリア語版)と合流した。3月24日0718時、ランツェロット・マルチェッロがボン岬半島の北44.8kmでアブディール(英語版)が設置した機雷に触れて航行不能となった。当初は魚雷攻撃を受けたものと考え、アスカリ艦長で駆逐艦部隊指揮官のマリオ・ジェリーニ中佐はレオーネ・パンカルドとカミチア・ネーラにチュニスへと進むよう命じ、90分後に沈没したマルチェッロを救おうとした。しかしながら、マルチェッロの生存者を救助している最中にアスカリも3発の機雷に触雷し、艦首と艦尾を失い、最終的に1312時にゼンブレッタ(英語版)の北約40kmで沈没した。ビゼルトおよびパンテッレリーアから送られ数隻のMAS艇が沈没の4時間後に到着したが、アスカリ搭乗の533名の兵員および乗組員のうち、救助できたのは59名だけだった。ジェリーニ艦長は乗組員193名のおよびドイツ兵280名とともに行方不明となった。
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