建造と文禄の役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 02:33 UTC 版)
「日本丸 (安宅船)」の記事における「建造と文禄の役」の解説
天正20年(文禄元年、1593年)に豊臣秀吉の命で九鬼嘉隆が建造し、当初は「鬼宿(きしゅく)丸」と命名されたが、名護屋城へ回航した際に最も優れた船として秀吉の指示で「日本丸」へ改名された。日本丸は文禄の役で九鬼水軍の旗艦として同年7月10日の安骨浦海戦に参加しており、『九鬼御伝記』には艦隊の楯として突出し、長時間に及ぶ朝鮮水軍による集中攻撃で矢倉は打ち落とされ端々しか残らず、帆柱も射切られる大損害を受けつつも健在だった旨が記されている。 この海戦の報告を受けた秀吉は味方に1艘の損失も無かったことを賞し、朝鮮水軍への対策として大船の派遣・建造を行う旨の書状を、海戦に参加した嘉隆・加藤嘉明へ7月16日に送っている。このことから秀吉が日本丸を有力な軍船と評価したことが窺え、以後は後述の様に日本丸以上の大船建造が行われることになる。嘉隆は文禄2年(1594年)初めの熊川海戦にも参加しているが、日本丸の動向は確認できない。文禄の役で日本水軍は多数の船舶を失ったが、日本丸は生き残り日本に帰還している。慶長の役では九鬼家は渡海しなかった。
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