建造と変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:50 UTC 版)
「ヴィルヘルム・グストロフ (客船)」の記事における「建造と変遷」の解説
客船当時の姿を示すヴィルヘルム・グストロフの模型(1938年のDAF展覧会にて) ヴィルヘルム・グストロフの船内プール 同船は当時ドイツの政権を担っていたナチス党のロベルト・ライの率いるドイツ労働戦線(DAF)の下部組織である歓喜力行団(KDF)の客船としてハンブルクのブローム・ウント・フォス造船会社において総工費2,500万ライヒスマルクをかけて建造された。新造時の総トン数は25,484トン。歓喜力行団の所有する13隻のうちの一隻で、地中海クルーズやノルウェイのフィヨルド・クルーズを提供した。 船内に2人用の客室が224室、4人用の客室が233室、ほかに大家族用の客室3つがあったが、歓喜力行団が階級の格差を否定していたことから、客室には一等・二等といった等級は存在せず、すべて同じ設計だった。アドルフ・ヒトラー専用およびロベルト・ライ専用のスイートルームもあったが、ヒトラーはこの船を利用することはなかった。 船名は、1936年2月4日にユダヤ系クロアチア人の医学生ダヴィッド・フランクフルターに射殺されたスイスにおけるナチス党の指導者ヴィルヘルム・グストロフに由来する。本来、「アドルフ・ヒトラー」と命名することが予定されていたが、ヒトラーの希望により「ヴィルヘルム・グストロフ」に変更された。これは、ユダヤ人に殺害された最初のナチス党員の名を利用したプロパガンダであった。 1937年5月5日:ヴィルヘルムの未亡人ヘトヴィヒ・グストロフ立ち会いの下に進水 1938年 - 1939年夏:大西洋岸、地中海クルーズ、ノルウェー・フィヨルド・クルーズ 1939年春:スペイン内戦のフランコ軍勝利に大きく寄与したコンドル軍団を帰国させるためにスペインのビーゴ港に派遣される 1939年9月:ドイツ海軍に徴用され母港で病院船に改装 1939年9月22日 - 1940年11月:病院船"D"(Lazarettschiff D)として就役し、ポーランドおよびノルウェーからドイツへの傷病兵輸送に従事 1940年11月:バルト海沿岸のゴーテンハーフェンに回航、病院船としての設備を撤去し第2潜水艦訓練部隊の兵営として繋留 1945年1月30日:ゴーテンハーフェンからシュテッティン、キールに向けて出航、ソ連潜水艦S-13により魚雷攻撃を受け沈没。
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