建造と艦名の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 17:07 UTC 版)
「加古 (重巡洋艦)」の記事における「建造と艦名の経緯」の解説
艦名は兵庫県を流れる加古川に由来する。1921年(大正10年)3月19日、5500トン型軽巡洋艦として加古、那珂、神通、川内の4隻(後の川内型軽巡洋艦)の建造が計画された。加古は佐世保工廠で建造を予定していたが 、1922年(大正11年)の ワシントン軍縮会議の結果、 3月17日に加古の建造が中止された。10月9日、排水量7100トンの新造一等巡洋艦(当時の日本海軍の区分で7000トン以上の巡洋艦)1番艦に、中止された軽巡の建造費目を転用できる加古の艦名が当てられ、川崎重工業神戸造船所で建造する事が決まった。2番艦は計画通り古鷹、3番艦以降に1番艦に予定していた衣笠の艦名が先送りされた。この結果、重巡洋艦(一等巡洋艦、甲巡)に山の名前をつけるのが慣例の日本海軍で、例外的に河川名が付いた艦となった。 最上型重巡洋艦と利根型重巡洋艦は日本海軍の内規上は軽巡洋艦(二等巡洋艦、乙巡)に区分されたため、河川名で新規竣工した重巡洋艦は加古が唯一である。 艦艇研究家の福井静夫は加古の艦名が変更されなかった点について、加古の計画常備排水量は7100トンだが、ワシントン軍縮会議における基準排水量では6700トン超となり、7000トンを下回って軽巡洋艦に区分される可能性に留意したのではないかと指摘している。実際の古鷹型は計画より大幅に排水量が超過し、軽巡になる可能性はなくなった。 加古は1922年(大正11年)11月17日、古鷹より18日早く川崎造船所で起工した。進水は古鷹より約1か月半遅れて1925年(大正14年)4月10日 、竣工は古鷹より約4か月遅い1926年(大正15年)7月20日にずれ込んだ。竣工の遅れは、竣工直前にクレーン事故で船体を損傷したのが原因とされる。この結果、加古は11月29日の艦艇類別等級表の改訂で正式に古鷹型2番艦となったが、計画段階から「加古型」(加古級)の呼称が日本海軍内で定着していたため、改訂後も広く使われていた。 古鷹と加古は軽巡夕張 に続いて平賀譲造船官が設計を行い、コンパクトな船体で高い戦闘力を備えた夕張の設計思想を引き継いでいた。建造当初は古鷹同様、主砲に20センチ単装砲6門を備えた。重巡青葉 と衣笠は古鷹型の基本設計を踏襲したが、建造当初から主砲が20センチ連装砲3基6門に変更された。古鷹と加古は日本海軍で建造時に単装砲の主砲を採用した唯一の重巡洋艦となり、後日の近代化改装で連装砲に換装するまで、古鷹型と青葉型重巡洋艦の外観上の大きな差異になった(詳細は古鷹型重巡洋艦参照)。
※この「建造と艦名の経緯」の解説は、「加古 (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「建造と艦名の経緯」を含む「加古 (重巡洋艦)」の記事については、「加古 (重巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 建造と艦名の経緯のページへのリンク