訓練期間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 01:44 UTC 版)
「ジャン=クレマン・ラブルデット」の記事における「訓練期間」の解説
国家社会主義自動車軍団フランス人部隊を脱走し、ベルギーのブリュッセルやアントウェルペンにあるSS隊員募集事務所から武装親衛隊へ志願したフランス人たちは最初にドイツのショッテンにあるSS入隊準備学校(SS-Vorschule Schotten)へ送られた。「ライプシュタンダーテ・SS・アドルフ・ヒトラー」師団出身の教官(将校・下士官)の指導の下、この学校ではスポーツによる肉体鍛錬や、密集隊形での行進訓練が行われた(ただし、装備に限りがあるため武器教練は行われなかった)。 ショッテンSS入隊準備学校を経た後の1943年7月、ジャン=クレマン・ラブルデットを含むNSKK脱走組フランス人志願者約50名はアルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)に到着した。1941年1月から武装親衛隊の外国人(特にフラマン人、オランダ人、ノルウェー人、デンマーク人)義勇兵専用の訓練キャンプ として使用されているこの施設で、フランス人たちはマルティン・ラウエ予備役SS中尉(SS-Ostuf.d.R. Martin Laue)の第1中隊(NSKK脱走組のほぼ全員が第1中隊第1小隊)に配属され、他のゲルマン系外国人義勇兵たちと同様に基礎訓練を受けた。ラブルデットたちの中隊長ラウエ予備役SS中尉は、ゼンハイムに新たなフランス人志願者が到着する度に「(フランス人として)フランスのために尽くすことは1つの義務であるが、武装親衛隊でヨーロッパのために尽くすことは1つの名誉である」と強調した。 武装親衛隊へ入隊してから約1年後の1944年春、ラブルデットはチェコのネヴェクラウ(Neweklau、チェコ語表記ネヴェクロフ(Neveklov))においてSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. Standarten-OberJunker)となり、編成中のフランスSS義勇突撃旅団(Französische-SS-Freiwilligen-Sturmbrigade:後の第8フランスSS義勇突撃旅団)第II大隊に配属された。このため、ラブルデットは1944年8月に第I大隊が派遣されたガリツィアの戦いに参加していなかった。
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