訓練最終日-事件の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 05:02 UTC 版)
「橋北中学校水難事件」の記事における「訓練最終日-事件の発生」の解説
7月28日、水泳能力のテストを行うことを教職員間で打ち合わせた後、体育主任は補助の3年生とともに一般生徒職員より先に学校を出発して、文化村海岸の訓練場に到着した。 この日は、南側の養正小学校、北側の南立誠小学校が水泳訓練を実施しなかったので、水泳場の区域を前日までの幅約60m(約70m)から110mに拡げ、沖への奥行を渚より約41m(深さが1m足らずのところ)とした。北側の幅50m×奥行41mは女子水泳場、中間の幅10m×奥行41mを男女の境界、南側の幅50m×奥行41mを男子水泳場とした。沖41mの線の男女各水泳場の角に1本ずつ表示竿(竹竿)を立てた。このように拡げられた水泳場の北端(女子水泳場の北端)は安濃川河口より約295mの位置にあった。 この位置は、最も近い澪(帯状の深み、この時は海岸北端から海岸に平行して200m地点に至り、そこから大きく湾曲して沖に向かう。幅約20m、満潮時で水深約2m)の縁辺まで約30m(約20m)であった。 水泳場設定時(午前10時10分前頃)は、小潮の日の中でも最も干満の差の少ない日の七部満ち前後の潮具合の時である。無風快晴で海面には格別の波もうねりもなかった。しかし満ち潮の流れとは違った潮の流れが前日とは逆に水泳場を南から北に流れており、水泳場設定に当たった水泳部員の中にはこれに気づいて教諭に告げた者もいた。 テストの方法は、沖の境界の表示竿から少し内側に色旗付竹竿を10m置きに約10本立て、2本目まで泳げた生徒には20mと書いた距離札を男子水泳部員が渡すというものである。当日参加した女子生徒は約200名である。 職員に引率され、体育主任らよりやや遅れて海岸に到着した一般生徒のうち女生徒に教諭が入水の注意、潮の流れがあることを告げ、点呼、準備体操の後テスト前の体ならしの意味で入水時間を10分間として午前10時頃一斉に海に入った。男子生徒も同様である。 女子の集合場所は男女水泳場の中央寄りであったことから、自然にそこから女子水泳場東北隅に向かって扇形に散開するような形で海に入ることになった。約200名の女子生徒は泳げない者が大半を占めていて、テストで少しでも泳げる者としての認定を受けようとして浅くて水泳に適さない渚寄りを避けて大勢が沖の境界線に集まった。 ところが海に入ってから僅か数分後(2分~5分後)、女子生徒100名前後の者が水泳場東北隅附近で一斉に身体の自由を失い、溺れるに至った。生徒のほかに女性教諭も溺れている。溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や3年生水泳部員に海水浴客が協力して懸命に救助に当たった。校長も生徒を引き連れ海に入っていたが、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気づき、助けて上陸している。教諭の一人が自転車で約500m離れた芸濃地区組合立隔離病舎に急を告げ、医師と看手が現場に自転車で急行、少し遅れて看護婦も到着、救い上げられた10余人にカンフル注射や人工呼吸を施した。 次いで樋口病院から自動車で医師が駆けつけ、この自動車を見た警察が初めて事故を知り、三重県立大学医学部附属病院や伊勢市の山田赤十字病院に応援を求めた。津警察署からは救援隊が、三重県警察本部機動隊、陸上自衛隊久居駐屯地の衛生班、県庁職員も出動した。4名の漁師も舟で救援に協力した。三重県立大学医学部附属病院から院長ら医師13名、看護婦8名が到着したのは12時15分であった。 14時50分には山田赤十字病院から医師6名、看護婦10名も到着した。49名を引き揚げ、必死の手当てで13名は意識を回復したが(5時間半の人工呼吸で助かった生徒もいる)、36名は生き還らなかった。蘇生した13名は市内の病院で手当てを受けたが、うち6名は海水が多量に肺に入っていたため嚥下性肺炎を併発、28日夜重体に陥ったが29日朝危機を脱した。橋北中学校の学校葬は8月1日に行われた。 なお、8月6日には岩田川で水難女生徒の冥福を祈る灯篭流しが行われ、花火を合図に人々が黙祷を捧げている。
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